甲子園通算51勝、横浜高校を春夏連覇など数々の栄光に導いた名将・渡辺元智元監督が81歳で亡くなった。「怪物」松坂大輔を擁して日本中が熱狂した1998年。フジテレビの担当記者として横浜高校に日参し、現場を駆け回っていた筆者が、雨のグラウンドでの渡辺監督との忘れられない思い出を振り返る。
甲子園の伝説と「松坂フィーバー」
1998年の秋、甲子園大会もすでに終わっているというのに横浜高校の通称・長浜グラウンドでは大勢の記者、カメラマンが一人の選手を追っていた。
その視線の先にいるのは「怪物」松坂大輔選手。この年の夏、“歴史を変えた”横浜のエースだ。
準々決勝のPL学園戦は完投勝利。延長17回250球を投げ抜いた。
そのため準決勝の明徳義塾戦は先発を回避。横浜は8回までに0-6とリードを許してしまうが、9回表、松坂が登板し、裏の大逆転につなげた。
怪物が腕に巻いたテーピングを自らはがし、マウンドへ向かった時の歓声はいまだ、忘れられない。
決勝は先発。京都成章を相手に夏の甲子園2人目となる“決勝戦ノーヒットノーラン”を達成し、横浜は春夏連覇。甲子園は“松坂フィーバー”で幕を閉じた。
「特オチ」からのリベンジと雨のグラウンド
夏が終わった後も、「怪物」の去就をめぐって、連日マスコミが彼の一挙手一投足に注目していた。かくいう私も甲子園の“伝説3試合”を現地で取材した後、横浜高校のグラウンドに日参した。
実は、準々決勝のPL学園戦で私は試合経過に夢中になりすぎたあまり、アルプススタンドやネット裏に集まったスカウトの取材をすっかり失念。デスクから「特オチだ」と烈火のごとく怒られていた。
その「リベンジ」を果たそうとドラフト会議前に「怪物の単独インタビュー」を狙っていたのだ。
“松坂くん”と2人で話すため、彼の自宅から横浜高校まで一緒に“通学”するなど、ありとあらゆることをして、距離を縮めていった。
その結果、「怪物」とも普通に会話できるようになり、練習後、他社と一緒のいわゆる「囲み取材」でも彼の“本音”が聞けるようになってきた。
それでもやはり1対1で聞きたい。とはいえ、学校に「松坂投手のインタビュー取材」を申し込むも、返事はなし。
そんななか、確かドラフト会議の1週間前だったと思う。
その日は雨だった。横浜高校のグラウンドに足を運ぶと、いつもより少ないメンバーでの練習が行われており、「怪物」の姿はなかった。
「俺がOKと言えば大丈夫」名将がくれたスクープ
「きょうはもういいや」と帰りかけたところ、珍しく渡辺元智監督が私に話しかけてきた。
「連日お疲れさま。よく足を運んでくれているよね。きょうの取材の目的は何?」
こんなことを聞かれるのは初めてだったが、私は「ドラフトを控えた松坂選手に単独インタビューをしたいんです」と即答した。
渡辺監督は周囲を見渡し、「きょうは雨だから、あなた以外、他の記者さんは誰もいないね。いいよ、あなただけ単独インタビューOKだ。松坂はきょうは学校の寮にいるから行ってきなさい。俺がインタビューOKと言えば大丈夫」とほほ笑んだ。
私は「ホントですか?ありがとうございます。行ってきます!」と言って、車で15分ほどの学校の隣の寮に向かった。
寮の廊下で「マツ!これからインタビューさせてもらうよ」と言うと、一瞬戸惑った表情を見せたものの、「渡辺監督からOKもらっているんで」と告げると安心したように「わかりました。お願いします!」の一言でインタビューは始まった。
彼は「第一志望はやはりベイスターズです。地元横浜のチームなんで。それ以外の指名だったら社会人に行って腕を磨きたい」と言い切った。
もちろんドラフト前に単独インタビューに成功したのはわれわれだけ。ドラフト前日、夕方のニュースで大々的に報じた。まさに渡辺監督に「スクープ」をいただいた形となった。
もう聞けない「チャンスを与えてくれた理由」
西武ライオンズに1位指名された彼は悩んだあげくプロの世界へ。その後の活躍ぶりはもう書く必要がない。
渡辺監督の訃報に接した松坂さんは「今の自分があるのは渡辺さんと出会えたからです。感謝していることは山ほどありますが、もっと渡辺さんと話をしたいことがありました。僕にとっては一生監督さんです。心よりお悔やみ申し上げます」とコメントを寄せた。
渡辺監督に「なぜ大勢いる記者の中でも私だけにドラフト前の”単独インタビュー”というチャンスをいただけたんですか」と一度聞いてみたかったが、そのチャンスはもうない。
その答えを聞くことはかなわないが、きっと横浜高校のグラウンドでも私と同じように「渡辺監督はなぜ自分にチャンスを与えてくれたんだろう」と思い、それを励みに、そしてそれを忘れずに人生を送っている人間は数多くいるのだろう。
(高知さんさんテレビ・坂本隆之)
