野中広務という政治家は何者だったのか

 
 
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4月14日、京都駅に隣接したホテルで、1月に92年にわたる生涯の幕を閉じた野中広務元官房長官のお別れの会が、野中家と自民党などの合同で開かれた。

会には安倍首相、二階幹事長、小沢一郎氏など与野党の大物政治家をはじめ、約3000人が集い、野中氏の遺影に花を手向けた。

かつて、野中氏が幹事長や幹事長代理として大いに権勢をふるう様、そしてその後小泉首相の登場によって影響力を落としていく過程を、担当記者として取材していた自分としては、会にどれくらいの人がどんな思いで集まるのか、そして野中氏とは何者だったのかを改めて感じたいと、高い関心を持って取材した。

「正義を貫き 不正を憎み 弱き者に寄り添う」政治家

 
 

会では、野中氏からたびたび批判を受けてきた安倍首相が弔辞で、野中氏を「平和の番人」「正義を貫き、不正を憎み、弱き者によりそってこられた」と評し、社会党と組んでの自民党の政権復帰や、公明党との連立という、現在の自民党政権への野中氏からの遺産ともいえる功績を称えた。

そこには政治思想は違えども、日本そして自民党をよき姿にしていくことへの共通した思いが感じられた。

もっとも、安倍首相の「戦争を知る世代がまた一人旅立つ今、我々は平和の尊さを当たり前のものとして受け止めてはいないか。先生が守り引き継いでくださった素晴らしい国・日本を守り抜いていくとお誓い申し上げる」との言葉については、憲法改正や抑止力強化で日本を守る姿勢の安倍首相と、改憲に慎重でアジアとの友好を重視した野中氏とで、アプローチが違うかもしれないが。

アジア外交と言えば、二階幹事長は弔辞の中で、小泉首相が靖国参拝を打ち出し、日中関係がぎくしゃくしている際に、野中氏に誘われ共に中国を訪問したエピソードを紹介し、「難しいときこそ行動するという、先生から受け継いできた財産をきちんと次の世代に引き渡していく」と述べた。
安倍首相のもとで日中関係が一時悪化した際にも、二階氏はこの言葉通りに中国を訪問してきた。
その二階氏も79歳、次代の中国とのパイプは誰に引き継がれるのだろうか…。

自民党ハト派の衰退の遠因に野中氏自身の行動も

 
 

こうした中国外交や憲法9条堅持の姿勢に象徴されるように、野中氏は、自民党ハト派の重鎮であり、古賀誠元幹事長はこの日、「日本の政界最大のリベラル派。本当に大事な政治家だった」と評した。そして、出席した多くの政治家が、野中氏のような政治家が今の自民党にいないことを嘆いて見せた。

かつての自民党は、安倍首相の祖父岸信介元首相の系譜に連なる、憲法改正や防衛力強化に積極的なタカ派的勢力と、田中角栄元首相や大平正芳元首相ら軽武装で経済・アジア外交重視のハト派的勢力のバランスで政権を運営してきた。

しかし、小泉首相の登場、野中氏の引退、そして二度にわたる安倍政権などを通じ、ハト派勢力は凋落し、タカ派カラーの政権が続いている。もっとも、それを導いた要因は、2つの意味で野中氏らの政治に起因している面もある。

1つは、野中氏はじめハト派勢力が、外交において、中国、韓国、北朝鮮に融和的に接する中で、逆につけ入られていた面も否めず、内政的にも、分配型・調整型の、悪く言えばなれ合いの政治が世論の離反を招き、対外的に強い政治を望む国民が増えたことだろう。

 もう1点は、当時リベラル派のプリンスであり、野中氏が将来首相に据えようとしていた加藤紘一元幹事長を、野中氏自身の手で失脚に追い込んでしまったことだ。橋本内閣では野中氏と協力関係にありながら、小渕内閣の経済政策に批判的だった加藤氏を野中氏が厳しく批判し、加藤氏も野中氏らの影響力のもとで政権を握ることを望まなかった。

野中氏は当時、加藤氏のことを語る際、本当に苦々しそうで愛憎半ばと感じさせたが、加藤の乱の際の対応は、苛烈なものだった。もし、野中氏と加藤氏が離反せず協力関係を維持していたら、そして加藤派が分裂することがなかったらその後の政治の光景はかなり違ったものになっていたことは想像に難くない。

 
 

”好々爺”の情と非情

そうした結果を招いたのは、野中氏特有の情と非情によるものだったと思う。
お別れの会で、同じ京都選出の伊吹文明元衆院議長は、野中氏について「情の強い政治家、情が強いと書いて怖いと読むと言う政治家だった」と語った。

新聞やニュースの中の野中氏は、公の場での厳しい表情と、激しい言葉の影響もあって、まさに怖い部分がクローズアップされたし、野中氏に罵られたり、厳しく叱責された政界関係者は少なくない。
私も、野中氏が重要会合に向かうと察知した際に、車で後をついていったことがあるが、その際、野中氏から直接携帯電話に着信があり、あの独特の声で「君なあ、これ以上僕のあとをつけてくると、二度と僕の取材できなくなるぞ!わっはっは」と最後は笑い声を交えつつも、厳しくけん制され、ぞくっとしたことがある。

しかし、怖い野中氏はあくまで一面であり、野中氏に近い人々が持つ野中像は優しさだ。記者からみても、議員宿舎の自室で毎夜取材に応じ、青汁の缶を片手に「ほー」「そうすか」「知らず(笑)」などと質問を煙にまきつつ、時折政局のヒントを示唆する姿は好々爺そのもの、という時がほとんどだった。

そして、社会的に弱き人々に対するまなざしも含め、心温かさがにじみ出る人柄が愛され、各界に野中ファンが生まれ、野中氏を支援する輪や、永田町随一の情報網の原動力となっていた。

コーヒーを飲みながら記者と語り合った野中氏

 
 

京都府園部町(現在の南丹市)にあった野中邸の目の前で営業していた喫茶店「三洋苑」。
野中氏は要職に在任している際も、基本的にほぼ毎週地元に戻り、朝はこの喫茶店でコーヒーを飲みながら、近所の人たちや、東京から来た記者と、にこやかに語り合った。

三洋苑のマスター、黒木勝さんと雅子さん夫妻は、野中氏は喫茶店に来ている人の名前をすぐに憶え、やさしく語り掛け、心配りを欠かさなかったと思い出を語った。
野中氏について「こんなにやさしい人はいない」の一言に尽きるという。
 

 
 

「野中広務は 戦争のない平和な日本を祈り 生き続ける」

そんな心優しい野中氏だが、政敵とは徹底的に闘う。
自伝として最初に書いた本のタイトル「私は闘う」をとても気に入っていたくらい、闘いの人だった。
そして闘いとは非情なものだ。
ハト派で心優しいながらも、徹底的に闘う。必然的に敵も多くなる。しかし政治家には、この情と非情をあわせもち、うまく使い分けることが必要なのだろう。

安倍首相も、情の人と言われる一方で、敵味方を峻別し、政敵には容赦なく非情を持ってあたる所は、野中氏と共通するかもしれない。菅官房長官も情と非情の両面を使い分け、それが絶妙な官僚操縦術になっていると指摘される。

こうした政治家の情と非情だが、秋の自民党総裁選挙に出馬する可能性のあるポスト安倍といわれる面々はどのくらい持ち合わせているか。
総裁選はそうした人間力、政治家力が試される場でもあり、「豊かで平和な国」を維持するリーダーの資質が問われる場だといえる。
野中氏は、私が昨年8月に、最後に話した際には、「人材がなあ」と今後を任せられる政治家の不足を嘆きつつ、林芳正氏や小渕優子氏らの将来に期待を示していた。

お別れの会の終盤、野中氏の一人娘、多恵子さんが感謝と共に思いを語った。

「野中広務は生き続けていくと思います。ある時は遠い空から、ある時は皆様のそばで、戦争のない平和な日本を祈り、見守ってくれると信じています」

 野中氏の訴え続けた「平和」を維持するには、どの選択が一番なのか、政治家、そして私たち国民が真剣な議論をしていく姿を、野中氏に見守ってもらいたい。  

(フジテレビ 政治部デスク 高田圭太)
 

髙田圭太
髙田圭太

フジテレビ報道局  政治部デスク 元「イット!」プロデューサー