“世界初”のパラリンピックを創ったのは、別府の医師だった

【連載】1964から2020東京パラリンピックへ

カテゴリ:芸能スポーツ

  • 東京はパラリンピックを2度開催する世界初の都市となる
  • 「日本のパラリンピックの父」と言われるのは中村裕博士
  • 当時は「障がい者を見世物にするのか」と多くの批判があった

2020東京オリンピック・パラリンピック(以下東京オリパラ)まで、残すところ約一年。東京では1964年以来、56年ぶりの開催だ。前回は戦後復興の象徴であると同時に、初めて「パラリンピック」という名称がつけられた大会だった。だから来年東京は、パラリンピックを2度開催する世界で初めての都市となる。

パラリンピック発祥の地はイギリスだった

パラリンピックの発祥の地は、イギリス・ロンドン郊外といわれている。

第2次世界大戦で負傷した兵士の治療と社会復帰を行っていたストーク・マンデビル病院。この病院で「手術よりスポーツのほうが、リハビリテーション効果がある」と車いすアーチェリー大会を開いたことが、障がい者スポーツ大会の始まりだった。

その後、この車いすアーチェリー大会は、他国も参加する国際大会となり、1964年の東京で世界で初めて「パラリンピック」という呼称が使われた。

「パラリンピック」の「パラ」とは、「パラプレジア(脊髄損傷による下半身麻痺)」にちなんだものだ。当時誰が名づけたのかは、はっきりわかっていない。


その後、パラリンピックには脊髄損傷だけでなく、さまざまな障がいを持つ選手が参加するようになった。そこで、「パラ」という言葉は「パラレル」、つまりオリンピックと並行して行われる大会と再定義されることになったのだ。

「日本のパラリンピックの父をご存知ですか」

「別府に日本のパラリンピックの父といわれる人がいたのをご存知ですか?」

2016年の秋、ある仕事関係者からこんなことを聞かれ、おもわず著者は「別府って、大分の別府ですか?」と聞き直した。

「日本のパラリンピックの父」と言われるのは、別府生まれの医師、中村裕博士(1927~84)だ。中村は類まれな発想力と強い意志で、日本の障がい者をめぐる歴史を変えた「チェンジメーカー」だと言える。

右)中村裕博士 左)ストーク・マンデビル病院のグットマン博士

いまNHKの大河ドラマ「いだてん」では、東京オリンピックを招致した人々の活躍が描かれている。一方、世界初のパラリンピックを招致した、この一民間人のことは知られていない。
だからここでは、まだ障がい者スポーツに人々の理解が無かった昭和の時代に、東京パラ開催に向けて中村がどうやって大会を実現させたのかを紹介したい。

車いすバスケに衝撃を受けた中村博士

中村は1958年、31歳の時に国立別府病院に着任し、脊髄損傷による患者の治療やリハビリテーション(リハビリ)の研究にあたった。

当時の日本では、「リハビリ」という言葉はまだ一般的ではなく、医学界でも「未知の分野」だった。

中村は1960年に、リハビリの研究生として欧米に派遣され、前述したイギリスのストーク・マンデビル病院を訪れることになった。
この訪問が後に日本の障がい者スポーツの歴史をつくることになるとは、当時30代の若きドクターは想像さえしなかっただろう。

「なんてことだ。。。これは日本では考えられない」

中村はストーク・マンデビル病院で、車いすの障がい者がバスケットボールをしているのを見て衝撃を受けた。当時の日本では、車いすの障がい者は社会生活を行うことさえ難しく、ましてスポーツをすることなど考えられなかった。

さらに中村にとって驚きだったのは、ストーク・マンデビル病院では、8割以上の患者が半年以内に社会復帰を遂げていたことだった。日本の社会復帰率は、ほんの2割程度だった。

当時の道路はほとんど舗装されてなく、もちろんエレベーターなど普及していない。だから車いすで外出することは難しく、障がい者に対する差別や偏見も強かったので、家族も車いす患者を家から出すことは少なかった。

「障がい者を見世物にするのか」

「スポーツは、障がい者の健康維持だけでなく、積極性や社会性をもたせるうえでも優れている」

そう考えた中村は留学から帰国後、さっそく車いす患者のリハビリにスポーツを取り入れようとした。しかし当時はまだ障がい者がスポーツをすることに理解がなく、「障がい者を見世物にするのか」と多くの批判を浴びることになった。

中村の職場でも、医師たちは「せっかくよくなりかけたものを悪くするようなものです」「だれが責任を取るんだ」と反対した。


若きドクターは自分の信念を曲げず、地元大分の行政や政治家、医療関係者らを説得して回り、とうとう1961年に、大分で日本初の障がい者スポーツ大会を実現した。

しかし大会の規模はこじんまりしたもので、「運動会程度だな」「気まぐれな田舎の医者のお遊び」といった言葉が投げかけられた。そこで中村は考えた。

「日本人は地方で行われることには関心を示さないのに、欧米で行われたことになると、やたら大騒ぎする。ならばいっそのこと欧米の大会に出てやろう」

こうして中村は、当時世界で唯一の障がい者スポーツ大会だった、イギリスのストーク・マンデビル大会に、日本人選手を送り込んだのだ。

「福祉国家ニッポンの看板は偽りになる」

アジア初のストーク・マンデビル大会参加を成し遂げた中村は、世界の障がい者スポーツの関係者からも注目されるようになった。
そして1963年に開かれたパラリンピックの国際会議で、日本は理事国に選ばれたのだ。会議では、「東京オリンピックの時にパラリンピックも東京でやれないか」と議案が出され、「中村、お前がやってみろ」と議場で指名された。

中村は帰国後、パラリンピックを東京で実現させるべく、厚生省(当時)などに足を運んで、パラリンピック開催のことを説得して回った。しかし、前例がないパラリンピックへの反応は極めて悪く、冷ややかにあしらわれた。

中村の訪問を受けた、当時の関係者はこう振り返る。

「中村博士が突然私を訪ねてきて、『東京オリンピックの後に、東京パラリンピックという脊髄損傷の国際スポーツ大会を開催しなければいけない』と言うんです。しかも、『厚生省や関係者はいっこうに腰を上げてくれない。こんな状態では開催が難しいので呼びかけに協力してほしい』と・・」

この場で中村は、「東京オリンピックの後に東京パラリンピックを開催できないとすれば、福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになりますよ」と強く訴えた。

この関係者は中村の情熱的な説得に感銘を受け、「実現を目指して頑張りましょう」と握手をして別れたという。
こうして中村は、東京パラリンピックの理解者を徐々に増やした。

東京パラリンピックの決定から開催までわずか1年余り。
今では信じられない猛スピードで、中村ら関係者の準備が始まったのだ。

(画像提供:社会福祉法人太陽の家)

「日本のパラリンピックを創った男 中村裕」講談社 著者:鈴木款 8月5日出版

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