2025年は終戦から80年、KTSでは戦争にまつわる企画を随時お送りしています。

こちらは太平洋戦争末期、アメリカ軍機の攻撃を受けて沈没した戦艦大和です。

大和が沈没したのは枕崎沖ですが、かつては徳之島沖で沈没したと考えられていたことから、徳之島の伊仙町では、大和を中心とする艦隊の戦死者を弔う慰霊祭が毎年行われています。

5月15日は慰霊祭に出席した1人の男性を通して、戦争の悲惨な実情、そして受け継がれる「思い」について考えます。

世界最大の戦艦、大和です。

昭和20年4月、沖縄に侵攻したアメリカ軍を攻撃するために出撃。

しかし、多数のアメリカ軍機の空襲を受け、大和と9隻の護衛艦からなる第二艦隊は、大和を含む6隻が沈没しました。

徳之島の犬田布岬。

そびえ立つ巨大な建築物は第二艦隊の戦死者を弔う慰霊塔です。

田中慎介記者
「戦艦大和の艦橋の高さは24mでした。犬田布岬にそびえたつ慰霊塔の高さは、これに重ね合わせたものとなっています」

4月、この慰霊塔前で慰霊祭が行われました。

参列者は約200人。

しかし、この中に生き残った乗組員や、乗組員の遺族は1人もいませんでした。

伊仙町きゅらまち観光課・上木雄太課長
「戦後80年ということで、戦争を経験した人やその遺族が年々少なくなっている現状はある」

「黙とう」

じっと目を閉じるこちらの男性は、杉浦秀延さん(66)。愛知県からやってきました。

愛知から参列・杉浦秀延さん(66)
「私たちの先輩である山中寛三さんが駆逐艦磯風の軍医長で、命からがら生還した」

ロータリークラブで杉浦さんの先輩だった愛知県碧南市の医師、故・山中寛三さん(享年101)です。

地域医療の充実に力を尽くし、7年前に101歳で亡くなった山中さん。

太平洋戦争終盤では駆逐艦の軍医を務めていました。

乗り込んだ駆逐艦は、「磯風」。

大和とともに坊津沖で沈んだ船です。

杉浦さんは、そんな船に乗りこみながら生還を果たした先輩・山中さんの思いを背負って徳之島を訪れていました。

杉浦さん
「(山中さんは)『慰霊をしたい』とかねがね思っていたから、その思いを遂げることが私の使命だと思った」

こちらは大和を護衛する8隻の駆逐艦を指揮していた巡洋艦「矢矧」です。

集中攻撃を受けて行動不能となった矢矧に接近する駆逐艦。

山中さんが乗る磯風です。

この直後、磯風に敵弾が命中しました。

その時の様子を山中さんは手記に残していました。

山中さんの手記
「目の前が火の海となった。下を見ると既にその中は火の海である。2、3秒前に話していた兵隊の名前を呼んでも一人も出てこない。機銃員が数人ゴロゴロと倒れてうめき声を上げている」

太平洋戦争序盤から常に前線で戦い続けた磯風も、ここで行動不能に。

山中さんを含む乗組員が味方の駆逐艦に乗り移った後、撃沈処分されました。

慰霊塔の根元には、戦死した第二艦隊の乗組員たちの名前が刻まれたプレートが設置されています。

その数、3737人。

杉浦さん
「1名1名、戦いで亡くなった。(戦死者たちが)生きた証がここに表れている。非常に尊いものだと思う」

大和沈没から、80年。

あの戦闘を生き抜いた第二艦隊の乗組員も多くがこの世を去り、遺族の高齢化も進んでいます。

関係者による慰霊の場への出席が年々難しくなる中、慰霊祭を担当した伊仙町の上木課長はその位置づけの変化を指摘します。

伊仙町・上木課長
「慰霊塔を平和のシンボルとして恒久平和を願い、今後も慰霊祭を通じて後世に平和のメッセージを伝えていけたら」

先輩の「思い」を受け継いで慰霊祭に出席した杉浦さん。

自身の思いについてはこう語ってくれました。

杉浦さん
「80年前に(戦争の)事実があったことを今生きている人に知ってほしい。亡くなった人たちの犠牲の上に今の平和の日本があることを考えてほしい」

鹿児島テレビ
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