2025年は、日本が太平洋戦争に敗れて80年の節目です。そこで、山陰に残る戦争の体験や記憶を映像で残し、毎月放送していきます。4月25日は、その第1回として、国を挙げた燃料確保プロジェクトを取り上げます。福村翔平記者が取材しました。
航空機用のガソリンが不足した戦争末期、代替燃料として着目されたのが、植物のマツから採れる油です。
その優れた産地として名を馳せたのが島根県邑南町で、そのいわば”遺物”が、今は形を変えて記憶を留めています。
マツと戦闘機が描かれた、戦時中のポスター。
「全村をあげて松根赤だすき」
このポスターが作られたのは、太平洋戦争の末期。
燃料不足に悩む旧日本軍は、マツから採れる油から戦闘機用のガソリンを製造することを計画しました。
これは終戦の11日前、”昭和20年8月4日の新聞”です。
「とろう松脂決戦の燃料へ 簡単にできる良質油 本土到るところに宝庫あり」
「国民の総力を挙げてマツから油を採取せよ」
切羽詰まった日本政府による国家プロジェクトでした。
マツから採取した油は2種類あります。
一つが「松脂」。
出雲大社の神門通りの松並木には今も、むきだしになった幹に刻まれた何本もの筋が残っています。松脂を採取した傷あとです。
山陰でも至る場所でこうした「戦争の傷あと」を確認することができます。
もう一つが「松根油」。
枯れたマツの切り株を蒸し焼きにすることで得ることができます。
この「松根油」を精力的に製造していたのが、現在の島根県邑南町です。その事実を伝える製造道具が、今は意外な姿となって残されています。
邑南町の「西隆寺」。
邑南郷土史研究会・中山光夫さん:
松根油を拵えた釜があります。現物がこちら、お寺の鐘楼代わりにしている。
案内してくれたのは、町の歴史を研究する中山光夫さんです。
表面に突起も模様もない釣り鐘。
戦時中は、松根油を抽出するために使われた鉄釜だったといいます。
邑南郷土史研究会・中山光夫さん:
戦前には鐘楼があったと思うが、鉄の供出があったのでなくなったと思うが、河原に捨てられ使われなくなっていたのを戦後に持ち帰って吊るした。
終戦で役目を終えた鉄釜は、戦時中の金属供出で失われた寺の釣り鐘の代わりとして、戦後すぐに住職らによって吊るされたと伝わっています。
邑南町内には、こうした鉄釜を使った松根油の工場が3か所あったとされ、多くの働き手を戦地に送り出した村では、女性や高齢者、子どもたちが総動員で松の根の掘り起こしなどを行っていたということです。
邑南郷土史研究会・中山光夫さん:
抽出された松根油は、まとめられて松江まで汽車で運ばれたようです。検査をしたら、邑南町のものは非常に評価が高かったということでどんどん増産した。
質の良さを裏付ける証拠が、町内の民家に残されていました。
山田光男さん:
燃料を緊急に増産しろということがあって、親父たちがそういう命を受けてやったんだろう。
邑南町の山田光男さん。
家には、農相大臣と海軍大臣から贈られた賞状があります。
日付は皮肉にも「終戦の日」…”昭和20年8月15日”です。
光男さんの父の福市さんは、松根油工場の責任者に抜擢されていました。
山田光男さん:
油が窯の後ろから、今で言うガソリンみたいな感じの油と、もう一つ、重油のような2種類の油が取れた。あれを覚えてる。
現在82歳の光男さんにも、微かな記憶が残っているといいます。
さらに…。
Qお父さんが持ってた物ですか?
山田光男さん:
大田市のどこに行ってたか覚えとらんが。これにお金を詰めて。500円札が一番大きいお金だったかな。
松根油を換金するため、大田市まで父と一緒に出かけた事を、昨日のことのように覚えていると言います。
かつての「鉄釜」と「幼子」の記憶。
中国山地の山懐に抱かれた小さな村にも、戦争がすぐ近くにあったことを物語っています。
資料によると、邑南町を始め全国から集められた松根油は20万リットル。
しかし航空燃料としては質が悪く、実用化されたという記録はありません。
実際に邑南町で松の根の掘り起こしに駆り出された人は、「心の中では、『松根を掘るようでは、もうだめだ』と思いながらも、口には出せなかった」と述懐しています。
戦時下の異常性を図らずも体現した鉄釜…。
今はその姿を釣り鐘に変えて、安寧の響きを山里に伝えています。