本件公表は、以上のような社会の耳目を引いた本件狙撃事件の捜査の経緯及び結果を説明するという観点からは、警察の説明責任を果たす意味においても必要性があるものと認められる。
また、控訴人が主張する同事件やA教の教祖及び一部の信者が実行した地下鉄サリン事件等の凶悪なテロ事件を風化させることなく、逃亡中の地下鉄サリン事件等の警察庁特別手配被疑者3名に対する情報提供を得ることに加え、これら事件と同様のテロ事件の発生を防止するために、国民による犯罪抑止活動や防犯意識を高揚させて地域等における防犯活動の推進を図り、国民の理解と協力の下に警察活動を行うということも、上記の必要性と並んで又は副次的な目的として、一般的に許容されるものと解される。

しかし他方、捜査された事件の刑事責任についての説明においては、被疑者ないし被告人は裁判で有罪とされるまでは無罪の推定が働くことに鑑みると、捜査段階においてはもとより、裁判が確定するまではあくまでも嫌疑の域を出るものではないから、犯人(犯行主体)として断定することは相当でなく、その段階での犯人(犯行主体)の断定により当該人または団体の名誉を毀損した場合には、特段の事情がない限り、前記(2)で述べた警察法1条及び2条に含まれる個人の権利を害することになる濫用的な警察権限の行使をしてはならないとの職務上の義務に反するというべきである。
以上の観点から本件についてみてみると、本件狙撃事件については、A教の信者3名が被疑者として逮捕され、検察庁に送致されたが、嫌疑不十分の理由により不起訴処分となった上、本件公表時には、同事件の公訴時効が完成しており、もはや同事件に係る刑事責任を追及することができない事態に至っていたのであるから、本件公表において同事件の捜査の経過及び結果を説明するとしても、犯人性、有罪性を前提とした犯人(犯行主体)の断定を伴う説明をすることは、本来的に許されないというべきであり、また、その説明により、前記1の説示のとおり、被控訴人の社会的評価の低下が生じているから、本件公表は、特段の事情のない限り、警察における職務上の義務に反するものというべきである。
判決では、事件が未解決に至った捜査のいきさつについて警視庁が説明する必要性は認めている。
本件捜査の経過や結果についての顛末を説明することは問題ないが、裁判で有罪だと決まったわけではない人間を犯人だと決めつけることは許されないと断じた。
法治国家である以上、法と証拠に基づき立証されなかった人や団体を犯人だと断定することは絶対にあってはならないのは言うまでもない。
タブーとなった長官銃撃事件
勇み足で締めくくってしまった時効のあの日から、捜査に費やしたのと同じ“15年”がさらに経とうとしている。長官銃撃事件でのオウム真理教への捜査内容は語ることさえタブーとなった。
オウム説であれ中村説であれ、犯人特定を立証するに足る証拠が集まらなかった捜査である。
凶器となった拳銃が発見されるくらいの新展開がない限り、もはや誰が犯人か特定することはできない。

しかし、この事件は国の治安を守る警察の最高責任者が拳銃で撃たれ生死の境をさまよった、史上最悪のテロだった。
捜査員が心血を注ぎなら解決を見なかった警視庁の捜査がどういうものであったのか。この国に住む一国民として、それを知らなくて良いものなのか。
特捜本部の捜査員が捜査の過程で、何と対峙し、どんな景色を見てきたのか。
事件は犯人を逮捕出来なければ0点だと言われているが、0点だから無かったことにしてしまって良いのか。

筆者は時効までの15年間に特別捜査本部がまとめた「総合捜査報告書」や、自分が長官を撃ったと自供した重要被疑者の「行動概要メモ」、「供述調書」、真犯人になり得る人物についての「捜査報告書」、東京地検が作成した捜査結果への見解をまとめた資料などを調べてきた。

南千住署特別捜査本部がどの様な捜査を行ったのか。その軌跡の断片を拾い集めて点綴し、時系列に沿って問題点を検証し次世代に残さねば、メディアにあってはそれこそ0点と言えよう。
固く閉ざされた捜査内容の封印を今ここに解き放つ。
【秘録】警察庁長官銃撃事件3に続く