乗客・乗員520人の命が一瞬にして奪われた日航ジャンボ機墜落事故から35年。

墜落現場となった群馬県上野村では毎年、慰霊登山や追悼慰霊式が行われている。

入社3年目の私は初めて現地を取材することになった。

娘2人を亡くした山岡武志さん・清子さん夫妻
娘2人を亡くした山岡武志さん・清子さん夫妻
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事故で亡くなった知美さん(左)と薫さん(右)
事故で亡くなった知美さん(左)と薫さん(右)

遺族の山岡武志さん(83)、清子さん(74)夫妻。

山岡さん夫妻は35年前のあの日、娘の知美さん(当時16)と薫さん(当時14)を亡くした。

娘2人は神奈川県にある親戚の家から大阪府の自宅に帰るためにジャンボ機に搭乗し、事故に巻き込まれた。

「あの時に戻らないかな…」

山岡さん夫妻は、事故の2カ月後に娘を探すため御巣鷹の尾根を登った。

登るのに何時間もかかるような険しい道のりだったが、それでも娘たちが生きているかもしれないとの望みを抱いていたという。

「あんなすごいところだからね、場所が。だからそれだけでびっくりした。あの日は雨だったんですよ。でももうあそこまで行った以上、登ると決めて登ったんです。」と当時を振り返る武志さん。

清子さんも「道なき道を。すごかったですよ。でも上行ったらひょっとして会えるんじゃないかな。それを半分期待して。」と35年前の心境を語ってくれた。

しかしそんな思いも届かず、2人は帰らぬ人となった。

娘との思い出を振り返る清子さん
娘との思い出を振り返る清子さん

母の清子さんは今も最愛の娘との思い出と共に生きている。

「私が化粧してなかった時「私がしたるからおいで」って私の化粧をしてくれたこともあった。そういう出来事を思い出すとまた2、3日寝れなくなりますね。」

亡くなった2人の兄・山岡直樹さん
亡くなった2人の兄・山岡直樹さん

山岡さんの息子で、2人の兄にあたる直樹さん(53)も妹との思い出を振り返る。

「(事故の)1カ月ほど前に、父と下の妹と甲子園に巨人対阪神を見に行ったんですよね。それが一番の思い出です。野球見た帰りに父親と3人でラーメン屋入ったんですよね、そのラーメンもう一回食べたいなと思って。あの時に戻らないかなって思ってますね。

コロナ禍で娘に会いに行けず…

山岡さん一家にとって一番大切な日、8月12日。

毎年この日になると山岡さん一家は、慰霊登山を続けてきた。

しかし、武志さんは昨年大腸がんを患って体調が思わしくなく、登山が困難な状態になっていた。

そこに追い打ちをかけたのが、新型コロナウイルスの感染拡大。

武志さんは感染リスクを考え、現地に行くことを初めて断念せざるを得なかった。

「登りたいけど、良くなったら行こうと思う。今年はこんな状態じゃ連れて行けないから。

夫の体のことを考えると無理はさせられないが、本音では今年も一緒に登りたい。そんな複雑な気持ちが清子さんから感じ取れた。

そして迎えた今年の8月12日。

時折天気は崩れたが、朝から強い日差しが照りつけ、夏らしい暑さを感じる1日だった。

清子さんと直樹さんは、親戚ら9人で慰霊登山に向かった。

清子さんの手には、この日のために綺麗に磨き直したという娘のバッグ、その中には墓標に飾る風車や娘達の写真が入っている。

清子さんは登山道に用意された杖を使いながら、重い荷物を持って一歩ずつ歩みを進めた。

 
 

登山道は木々に覆われていて、いくらか涼しく感じられた。足場も整備されており、事故当時を知らない自分でも、その時と比べたら格段に登りやすくなっているのだろうと感じた。

とは言え、登山道を進む遺族たちに、真夏の太陽が照りつける。

清子さんは着実に、尾根の頂上で待つ娘の元へと向かっていった。

主人が来られなかった事は残念に思います。来年こそはと思うけど。

道中では、来ることが叶わなかった武志さんへの思いがこぼれた。

「8月12日にここに来るのが私たちの務め」

休憩を取りながら登り続けておよそ1時間。清子さんは娘たちが眠る墓標に1年ぶりに戻ってくることが出来た。

「やっと上がれました。今年も来れてよかったです。」

墜落現場である尾根の頂上付近には、犠牲者を悼む慰霊碑である「昇魂之碑」や、数多くの墓標が設置されている。

慰霊碑の周りには色鮮やかな花がたくさん飾られ、優しく響いていたオカリナの音色や、吹き抜ける心地よい風は、まるで犠牲者や遺族を包み込んでいるようで、言葉で言い表せないような不思議な気持ちになった。

山岡さんの娘たちが眠る墓標は、昇魂之碑から少し登ったところにあった。

直樹さんは、2人に綺麗な花を見せてあげたいと、墓標の横に植えるサツキの鉢を持ってきていた。

「開花時期が5月6月で紅葉もしますんでね。この辺りだったら(涼しいので)ずれこんで8月に咲く可能性もあるかなと思って。」

知美さんと薫さんが眠る墓標を綺麗に手入れし、花を手向け、手を合わせた2人。

清子さんはこう語る。

8月12日にここに来るのが私たちの務めみたいなもの。他のご遺族ともお会いしたら、一言挨拶するだけでも心が繋がっている気がして。これからも登れるように。私も具合が悪くなるから体調を整えて。出来れば80歳くらいまで登りたいですね。

“空の安全を守るため”日本航空の取り組み

取材をする前は、事故を知らない世代である自分が取材に行って遺族や関係者に不快感を与えないか、不安を抱いていた。

ところが、遺族や関係者から語られるエピソードを耳にするうちに私は、こんな悲惨な事故は二度と起こしてはならないとの思いを強くした。

片や事故を起こした当事者の日本航空も、35年経った今でも『あんな事故は二度と起こしてはならない』との思いを忘れていなかった。

慰霊登山の取材後、私は日本航空の関係者からも話を聞くことができた。

日本航空では、事故を教訓に毎月、『航空安全推進委員会』という会議の場が設けられていて、そこでは部署の垣根を取り払い、安全への取り組みや安全を脅かすリスクなどについて、徹底的に議論が重ねられているとのこと。

また、今年はコロナ禍で実現できていないが、日本航空グループの新入社員は全員、事故を起こした機体や遺品などが展示されている安全啓発センターで研修を行った後、御巣鷹の尾根に登って墓標や慰霊碑の清掃を行うという。

日本航空安全推進部マネジャーの向山正人氏は「実際にその場にいって実感する。それが現地を訪れる意味だと思っている。論理ではなくて心の中に感じるものを植え付けていきたい。」と新人教育の意義を語ってくれた。

さらに、日本航空では、毎年8月を「夏季安全キャンペーン」と位置付けていて、事故から35年を迎えた今年は、“安全の原点に立ち返る”がスローガンに選ばれた。グループの全社員が、遺族の話や実際に事故を経験した社員の話を撮影したVTRを視聴し、感想文を提出。時間をかけてでも実際に感じたことを文章にして整理することで、社員全員が安全への誓いを新たにしたという。

事故を実際に経験した社員が全体の3%弱まで減った今、事故の教訓をいかに次世代に語り継ぐか。日本を代表する航空会社の必死さが感じられた。

変わらぬ遺族の思い 風化させないため

事故から35年を迎えたが、遺族の思いは、これからも変わることはない。

「35年経ったから気持ちが楽になったからとかそういうのは全くない。事故があったばかりと変わってないです。」(兄・直樹さん)

「元気でおったら連れて帰りたい。でもそれだけは叶わないから。あの子らが待ってると思って(毎年登っている)。」(母・清子さん)

日航ジャンボ機墜落事故を知らない世代が増え遺族の高齢化も進む中で、この事故を風化させてはいけない。悲惨な事故による犠牲者を出さないために、若い世代にもっとこの事故について知って欲しいと思う。

(フジテレビ報道局ニュース制作部 石竹爽馬)

石竹爽馬
石竹爽馬

フジテレビ報道局社会部