大分県玖珠町にある「旧豊後森機関庫」。今は公園になっており、この春も子ども連れなどでにぎわいを見せている。「機関庫」や「機関車」は子どもたちだけでなく大人もワクワクする場所だ。そもそもここがどういう場所であったのか、蒸気機関車の基地がなぜここにあったのか、玖珠町観光協会が所有するたくさんの写真を使って、歴史を紐解いてみた。

昭和9年 久留米~大分つながる

久留米と大分を結ぶJR久大本線。
大分駅から線路が伸びてきて、豊後森駅が誕生したのは昭和4年(1929年)のことだ。
そして昭和9年の11月、日田-天ヶ瀬間が開業し、久留米と大分がつながった。

豊後森駅開業
豊後森駅開業
この記事の画像(9枚)

駅の周辺は「国鉄の街に

TOS小笠原キャスター:
「ここに機関庫を誘致したかった最大の理由はやはり経済効果、人のにぎわいです。当時、豊後森駅周辺は大変なにぎわいだったそうです」

現在の豊後森駅
現在の豊後森駅

豊後森機関庫ミュージアム 河野孝文さん:
「ここには国鉄の職員さんが大体220から230人ぐらいおりました。今みたいに単身赴任ということはなかったもんですから。ご家族も一緒に玖珠の方に来てですね、森駅の周辺は、もう本当に国鉄の街みたいな感じで栄えていたとこですね」

にぎわう豊後森駅周辺
にぎわう豊後森駅周辺

なぜ、ここに機関庫が?

そこでそもそもの話。なぜ、ここに機関庫が必要だったのだろうか?

豊後森機関庫ミュージアム 河野孝文さん
豊後森機関庫ミュージアム 河野孝文さん

河野さん:
「昭和9年といいますと、まだ蒸気機関車の時代です。久大本線、久留米-大分間ですが全長が約140キロぐらいです。ここの豊後森がちょうど中間地点に当たります。そこで、水と石炭の補給ということで、この地に選ばれたみたいですね」

それから、もうひとつ。
ここから大分方面にある蒸気機関車の最大の難敵の存在も機関庫が必要な理由だった。

蒸気機関車 最大の難敵
蒸気機関車 最大の難敵

河野さん:
「水分峠が、かなりの難所でですね、ここでどうしてもエネルギーを使うもんですから、そういう意味でも水を補給して、蒸気を起こして、険しい峠を超えてたようですね。水を入れる時間と、機関士さんとか乗務員さんの休憩も兼ねてですね、30分ぐらいはゆっくり止まってたみたいですね」

水と石炭の補給ポイント
水と石炭の補給ポイント

悲しい出来事も…

昭和20年8月4日には、この場所で悲しい出来事が起こった。

河野さん:
「第2次大戦のもう終戦間際の8月に、米軍から機銃掃射を受けた跡なんですが、そのときにここの助役さんと機関助手の方と3名の方が亡くなっております」

弾の痕は今も見ることができる。

今も残る弾の痕
今も残る弾の痕

蒸気機関車廃止 貴重な鉄道遺産は町のシンボルに

そして昭和45年9月、蒸気機関車廃止。
豊後森機関庫は役目を終えた。

機関庫は、しばらく廃墟の状態でしたが2000年を過ぎた頃から、地域の皆さんの熱心な保存活動が行われ、整備が進んだ。
近代化産業遺産や、文化財にもなった。
貴重な鉄道遺産は町のシンボルになったのだ。

久大本線がつながって豊後森駅は久留米と大分のちょうど真ん中あたりにあたる。
蒸気機関車の石炭と水を補給するのに最適な場所だった。
水分峠を越えるのにパワーのある機関車にここでチェンジする場合もあったとかで機関庫が必要だった。

公園に遊びに行ったときにちょっとそんな話をお子さんにしてみてはいかがだろうか。

町のシンボルとなった「旧豊後森機関庫」
町のシンボルとなった「旧豊後森機関庫」

(テレビ大分)

テレビ大分
テレビ大分

大分の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。