年々姿を消す「駄菓子屋」。佐賀・大町町に唯一残る駄菓子屋を営んでいるのは、大正生まれの97歳のおばあちゃん。80年近くにわたって毎朝店頭に立ち、いまも地域の子供たちの成長を見届けている。
戦後、母から受け継いだ駄菓子屋
大町町にある吉川商店。

きょうも店頭に立つのは吉川暉子さん。大正生まれ、御年97歳だ。母親から店を受け継ぎ、80年近くたった今も毎朝7時半から店に出る。

吉川暉子さん:
「まだしていた?」と言うから(昔来ていた)子供が。「まだしてたよ」と。「いつも来ていたもんね」と自分たちから言って。「そんな大きくなったね」と

大町町生まれの母・トシさんが営む店を手伝いながら育った吉川さん。簿記の学校を卒業した後、17歳から家の近くにあった県内最大の炭鉱、杵島炭鉱で働き始めた。

吉川暉子さん:
これが杵島炭鉱があった時の総務課のみんな。タイプライターとか。私はここにいる
当時の日本は太平洋戦争の真っただ中。国民服やもんぺなどを着て、仕事をしていたそうだ。

吉川暉子さん:
空襲、空襲で、サイレンが鳴ったら私たちも坑内の中に入っていた。飛行機が通り過ぎるまで。本当に夢みたい、今考えれば
アメリカをはじめとする連合軍の空襲に日々おびえる生活だったが、そのころ知り合ったのが、炭鉱作業員だった安夫さんだ。

吉川暉子さん:
じいちゃんは音楽をしていた。アコーディオンをしていた。炭鉱で、グループで
娯楽が少なかった当時、杵島炭鉱では楽団や野球部などがつくられ、人気を博していた。

戦争が終わり22歳の時、安夫さんが婿養子となる形で結婚。それを機に炭鉱の仕事を辞め、吉川さんが母の店を切り盛りし、跡を継いだ。
吉川暉子さん:
昔はスーパーマーケットがなかったから、よく来てくれていた子供が。大人もね

炭鉱で栄えた当時、最大で約2万4,000人が住んでいた大町町。しかし、1969年に炭鉱が閉山してからは、にぎやかだった町も人口減少が進み、今では6,000人ほどになった。
子供たちとの触れ合いを楽しみに
吉川暉子さん:
何軒もあったけど、学校の近くに店。もうやっぱり辞めてしまった、年取って

町内に残る駄菓子屋は、この店1軒。7年ほど前に安夫さんが亡くなり、今は孫夫婦など5人で暮らす吉川さん。訪れる子供たちを楽しみに店を続ける。

男の子:
おばあちゃん96歳でしょ?
吉川暉子さん:
97歳
男の子:
97歳?あと3歳で100歳だね。頑張ってね
吉川暉子さん:
頑張るね

男の子:
100歳まで生きててね
町は変わったものの、駄菓子を見つめる子供たちの姿は今も変わらない。

吉川暉子さん:
ここのタレがおいしいからね。ありがとう
男の子:
おばあちゃん、イカ4本ちょうだい
「いつまでできるかな」
長年、地域の子供たちの成長を見届けてきた吉川さん。子供たちが来るのを楽しみに、きょうも店に出る。

吉川暉子さん:
いつ辞めようか、いつ辞めようかと思っているけど、もう金もうけじゃなくていい。みんなとおしゃべりして、子供たちと。きょうは早かったねとか遅かったねとか言って

吉川暉子さん:
いつまでできるかな。まだおつりは間違えない、タバコでも何でも。それで辞めきれないでいる。97歳まで店をすると思わなかったけど、やっぱり店をしないと寂しい
(サガテレビ)