横田滋さんは、いつも、ニコニコしていた。びっしりと細かい文字で書いていたスケジュール表。写真好きなお父さん。日本酒をおいしそうに飲むおじいちゃん。
でも、こうと決めたら曲げない、強い意志を持った人だった。
北朝鮮による拉致被害者・横田めぐみさんの父親、滋さんが6月5日、亡くなった。43年間というとてつもなく長い時間を、横田滋さん・早紀江さん夫妻は救出活動に費やした。それでもまだ、「再会」という目標は、かなえられていない。
私が滋さんを取材をしたのはほんのわずかな期間だが、私たちに語ってくれたこと、見せてくれたことをお伝えしたい。
文字びっしり…手書きのスケジュール表で全国行脚
2012年夏、新潟での集会に向かう新幹線の車内で、滋さんが見せてくれた1枚の紙。ボールペンで書かれた小さな文字で、集会、講演などの時間や場所、担当者の連絡先、新幹線の時間や号車番号が、びっしりと記されていた。

早紀江さん:
主人がね。書くのマメな人で、好きなんですよね
滋さん:
何時の新幹線に乗るとかね
講演の依頼を受けたら、滋さんが自ら細かく情報を書いていく。スケジュールはあっという間にびっしり、という状態が何年も続いていたそうだ。すべての都道府県を訪れ拉致解決を訴えてきたが、この時すでに70代後半で、「体力的にきつい」とも明かしてくれた。

――講演の依頼を断ったりしないんですか?
早紀江さん:
お父さんが聞かないんですよ
滋さん:
やはり拉致のことを知ってほしい。先日も新潟に行った。忙しいから駄目ですといったら、今の人たちはめぐみの拉致より後に生まれた人だから。(講演を)やらなかったら関心がなくなってしまう
強い使命感を秘めた言葉も、ニコニコしながら話す滋さん。早紀江さんはいつも、「お父さんは頑固なんだから」と笑いながら、そんな滋さんに寄り添っていた。夫妻は滋さんのこの“頑固”なまでの信念に突き動かされるように全国を飛び回り、多くの人に拉致問題について訴えてきた。

講演で滋さんは、聴衆の感情に訴えかける早紀江さんと対象的に、いつも「どのようにして拉致問題が発覚し、現在に至るのか」を時系列に沿って話すことが多かった。怒りや悲しみを押し出すことはなく、淡々と。めぐみさんが不明になって、手がかりが無い中での大捜索、国への働きかけ、小泉訪朝、ニセの遺骨…。怒濤の数十年をニコニコと、淡々と。

滋さんが見せた涙
集会では終始ニコニコとしていた滋さんだが、涙を見せることもあった。
めぐみさんと交わした日常の会話を、早紀江さんが作詞した歌(「コスモスのように」)が、集会で歌われることがたびたびある。きっと何度も聞いてきたはずの滋さんだが、口ずさみながら、涙をぬぐう場面もあった。

「あなたも お母さんが育てたあのコスモスのように 地に足をふんばって生きて生きているのね きっと」。歌詞の中で、早紀江さんは、遠く離れためぐみさんに向けてこう呼びかけている。滋さんはその歌を聴きながら涙していた。

北ミサイルの記事を懸命に…
私たちが最後に滋さんに取材をしたのが2017年9月。その時、滋さんは定期的に介護デイサービスに通っていたが、インタビューの日は夫妻そろって出てきてくれた。

質問にはほとんど早紀江さんが答えていたが、滋さんは、以前と変わらないニコニコ笑顔で、新聞を広げて懸命に読んで、記事を指さしていた。開いていたのは、当時、北朝鮮がたびたび発射していたICBM(大陸間弾道ミサイル)についての記事だった。
うまく言葉にあらわせなくても、めぐみさんがいる北朝鮮の緊迫した情勢を案じ、何かを我々に伝えてくれようとしていたのではないだろうか。

叶わなかった願い「めぐみをディズニーランドに…」
めぐみさんが帰国したら何をしたいですか?という質問を夫妻にしたことがある。
早紀江さん:
めぐみが自然が大好きな子で。北海道の牧場でね、馬とか牛とか放たれている広々とした牧場がありますでしょ。緑がざーっとね。ああいうところが好きだったの、あの子は。動物が好きだったから。バーッと寝転がってね。「自由だな」というのを味わせてあげたいと

滋さん:
やっぱり日本に対するいい印象を伝えられていないと思うんですよ。帰ってきたら、新しい日本を見せて、めぐみがいた時はディズニーランドもないし、そういうのも含めて、日本って強い、っていうのを見せてやりたい
めぐみさんが連れ去られるまでの横田家は、転勤族で、それぞれの赴任地で旅行によく出かけていた。たとえば、広島在住時は、秋吉台や宍道湖などに出向いていたという。カメラが趣味の滋さんは、行く先々で、はしゃぐ子供たちを写真におさめていた。

きっと、ディズニーランドにめぐみさんを連れて行っていたら、シャッターをたくさん切っていただろうな、と思う。だが、それは叶わなくなってしまった。

滋さんはどういう意味を込めて、「強い日本」と言ったのだろう?自由で豊かな、ディズニーランドのような人気の遊園地で子供たちがのびのびとはしゃぎ、成長していく…そんな日本をイメージしていたのだろうか。
それだけではなかったかもしれない。滋さんが見せたかった日本とは、どんな国だったのか。8年前、私はその質問をしていなかった。その意味を聞くべきだったし、報じるべきだった。

横田夫妻は、私たち記者に「取材をしてくれてありがとう」と声をかけてくれる。首相や拉致担当相が変わるたびに、永田町に出向く。
それでも、滋さんは、ディズニーランドをめぐみさんに見せてあげられなかった。その原因は、政治にもあるし、われわれメディアにもある。
早紀江さんがめぐみさんとの再会をかならず果たすこと。これは日本の責任だ。
【FNNニューヨーク支局 中川眞理子】