松坂大輔投手が10月19日の日本ハム戦で現役最後のマウンドに立った。久しぶりに彼の姿をみて、自分が駆け出しの記者だった24年前を思い出した。

“朝駆け”ならぬ“同伴通学”

チームメートから「マツ」と呼ばれていた少年は当時17歳。都内の自宅から東西線、京急線を乗り継いで横浜高校に通っていた。この少年をもっと知りたいと思い、上司にも内緒で“朝駆け”ならぬ“同伴通学”を決意した。

「たまたま駅で見かけた」と松坂少年に声を掛け、つり革に捕まりながら1時間ほどの通学時間を取材にあてた。

「好きなアーティストは?」「ミスチルです」
他愛もない話がほとんどだったが、17歳の少年は辛抱強く付き合ってくれた。恐らく7、8回は「また会ったね」と声を掛けて一緒に横浜高校まで通学した。

一緒に通学を始めた1ヶ月前、1998年の夏の甲子園大会。初めての高校野球取材で球史に残る3試合を現地で取材した。

1998年の夏の甲子園
1998年の夏の甲子園
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準々決勝はPL学園との延長17回の死闘、続く準決勝は明徳義塾相手に大逆転劇、そして決勝の京都成章戦で見せたノーヒットノーラン。
全て直接この目で見た。そして魅せられた。

「松坂世代のトップにならなければと思い、諦めずにやってきた」

あれから20年余りが経った2021年10月19日、松坂選手は引退会見で「松坂世代」という言葉について語った。

「いい仲間に恵まれた世代だったと思う。仲が良かったし、言葉に出さなくてもわかり合えた。自分は『松坂世代』と言われるのは好きではなかったが、周りの同世代みんなが嫌がらなかったおかげと、みんながいたからこそ、先頭を走ってくることができた。同時に自分の名前がつく以上、その世代のトップでなければならないと思ってやってきた。それがあったからこそ、最後まで諦めずに、ここまで諦めずにやってこられた」

夏の甲子園決勝で怪物と対戦した男

その「松坂世代」の一人が98年夏の決勝戦でノーヒットノーランを喫した京都成章高校主将(当時)の澤井芳信氏だ。

大学・社会人と進みプロを目指したが断念。現在は起業したスポーツバックス代表取締役としてスポーツマネジメントの世界で活躍し、元メジャーリーガーの上原浩治氏のマネジメントも担当する。

上原浩治氏のマネジメントを担当する澤井氏(左端)
上原浩治氏のマネジメントを担当する澤井氏(左端)

「松坂世代」の1人として、松坂投手の引退について聞くと、まず最初に「本当にすごいんですよ彼は」という返事が返ってきた。

「色んな引き際があると思うんですが、もう一度マウンドに立つんだと強い思いがあって、ここまでボロボロになって、本当に投げられなくなって引退というのがすごいと思う。よくここまでやったなという気持ちともう一回マウンドで見たかったなという気持ちがあるんです」

「ノーヒットノーランは名刺代わり」

そして次に感謝の気持ちを口にした。

「本当に本当にお疲れさまでした。そしてありがとう。よく松坂世代と言われるんですが、松坂世代っていうのは野球をやっている人だけではない気がするんですよ。自己紹介するときも『松坂世代です』『松坂世代の一個下です』と言っているのを聞いたことがあるし僕らの世代ではこの言葉は浸透していると思うんです。自分はその世代にいることが誇らしいと思っていました。松坂世代っていうのは彼がいなかったら成り立たなかった言葉ですから」

京都成章は優勝まであと一歩までたどり着きながら、力の差を見せつけられてのノーヒットノーラン。それでも、澤井氏に悔いはない。

「その時代に一緒に戦った自分も、ノーヒットノーランを食らったことも、松坂投手のその後の活躍でより輝いたものになったんです。自分の名刺代わりにもなったので、そういう意味でのありがとうという気持ちがあります。特に彼と時間を共有した仲間は「松坂」という共通項で僕らの世代はつながっているし、その仲間が全国にいるってことを誇らしく思うんです」

そして、松坂大輔投手の第二の人生については次のようにエールを送った。

「ボロボロになるまでやりきる。限界決めずに試行錯誤するというのはどの世界でもすごく大事。そういう姿を現役時代に見せてくれているので、野球界でも違う世界でもそれを伝えていってほしい」

41歳まで現役を続けた彼の背中に励まされた全国の“松坂世代”がどれだけ多かったか。「松坂世代」を自ら引っ張ってきたリーダーの第二章が始まる。

(フジテレビ報道局・坂本隆之)

坂本 隆之
坂本 隆之

1990年入社後、カメラマン・政治部・社会部・スポーツ部・番組プロデューサー・クアラルンプール、ベルリン、イスタンブールの支局勤務を経て現在はマルチメディアニュース制作部長。バルセロナ・長野・シドニー・リオ五輪やフランス、ドイツW杯の取材経験あり。