長崎県の南島原・深江町の大野木場小学校の旧校舎が、雲仙・普賢岳の火砕流で被災して、9月15日で30年となった。噴火災害当時の体験や教訓を次の世代に受け継ごうと活動する当時の消防団長の思いを取材した。

やり切れぬ思いを乗せ…被災体験を紙芝居にして残す

深江町 元消防団長・石川嘉則さん:
(当日は)消防本部、昔の役場のところにいた。どうも大野木場で火災があっているようなので行ってくれ、と

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南島原市に住む石川嘉則さん(82)。30年前、当時の深江町の消防団長として168人の団員をまとめていた。

1991年9月15日。雲仙・普賢岳の火砕流が深江町の大野木場地区を襲った。当時、この場所は立ち入り禁止の警戒区域に指定されていて人的被害はなかったが、火砕流の熱風が旧大野木場小学校の校舎や体育館を焼き尽くした。

深江町 元消防団長・石川嘉則さん:
ここに立ったときに黒い煙、赤い火、どんどん燃えるものだから、鉄筋や鉄骨がどうして燃えるかって、ここに立って一時泣いた。自分一人で

被災直後、警戒区域の中に入ったのは町長と消防団長の石川さんだけだった。

深江町 元消防団長・石川嘉則さん:
消防団をしていて水をかけることもできないでね

やりきれなかった石川さんは思いを乗せ、絵筆を走らせた。

紙芝居の朗読:
水無川の方に行くと赤々とした炎が下る、真っ赤な水無川が目に飛び込んできた

紙芝居に描かれた場面は、石川さんしか見ていない災害の現場。

深江町 元消防団長・石川嘉則さん:
上手に文章を書けないから、紙芝居を残しておけばいつでも「ああ、こういうことだったのか」とわかるから

コロナの影響で防災を伝える機会がない

現在の校舎が完成するまでの約8年半もの間、大野木場小の子どもたちは町民センターや仮設校舎での授業を余儀なくされた。

火砕流で無残な姿になった校舎は、地域の人々の要望を受けて被災したままの姿で残され、噴火災害を今に伝える遺構として防災教育などに使われている。

災害遺構として残る当時の校舎
災害遺構として残る当時の校舎

新校舎の完成後、小学校では毎年9月15日を「メモリアルデー」としていて、校舎焼失から30年となったこの日も、噴火災害や防災について学んだことを発表しようと子どもたちは準備をしていた。

しかし、新型コロナウイルスの感染拡大により全て中止に…。噴火災害をつなぐ機会がなくなり、石川さんも肩を落としている。

深江町 元消防団長・石川嘉則さん:
今の子どもたちのお母さんも雲仙・普賢岳の話は知らない

消防団に入り祖父の意志を受け継ぐ孫

石川さんは自身の体験談を次の世代に受け継いでいる。孫の大貴さん(26)は大学を卒業し、2020年に地元に戻ってきた。

深江町 元消防団長・石川嘉則さん:
風下から行ったら自分が犠牲にあう。火災のときには絶対、風上から入らないと。自分が死んだり、火傷したりするから

2021年6月3日には、大火砕流で12人が犠牲となった島原市の消防団員の詰め所があった北上木場地区に足を運び、祖父と手を合わせた。

石川さんの孫・大貴さん:
消防団の団長をしていた祖父から聞く話は、今後住む僕らの世代にとって貴重なものだなと。帰ってきてより一層感じて、それをつないでいかないと

大貴さんはこの春、地元の消防団として一歩を踏み出した。

石川さんの孫・大貴さん:
災害はこの地に生まれた者として、普賢のふもとで育った僕らにとって、切って切り離せない存在。先輩の消防団員が経験している大事なところを上手く引き継いで、後世につないでいくのは、生まれたものとしての役目かなと考えています

元消防団長の石川嘉則さんは、「道幅や防火水槽の位置など地域のことをよく知る消防団が、住民とコミュニケーションを取りながら自然災害や火災と向き合うことが必要」と話している。

そして、自身の孫のような当時を知らない世代にも、噴火災害から地域を守るために必要なことを学び続けてほしいという。

(テレビ長崎)

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