歴史の1ページを今に繋ぐため シャッターを切ったカメラマン
1972年、基地問題で苦悶の表情を浮かべる、初代沖縄県知事の屋良朝苗。
この記事の画像(20枚)1971年、基地問題への抗議のため機動隊に火炎瓶を投げつける群衆。
これらの写真を撮影したカメラマンが、50年前の沖縄テレビのアーカイブ映像に映っていた。
使命感に燃えて沖縄の激動の半世紀を駆け抜けてきた元琉球新報社の報道カメラマン、山城博明(72)さんだ。
山城さんが報道カメラマンを志すきっかけは大学時代に遡る。
山城博明さん:
美しい写真、風景写真とか自然の写真を撮影するつもりで、写真部に入部したんですよ
山城博明さん:
社会情勢とか、大学がそういう学園紛争の真っ只中でしたので、自然と被写体が闘争物の写真に向いて行った
本土復帰という「世替わり」を見つめてきた山城さん。米軍基地のない沖縄返還を訴えた7万人による11.10ゼネスト(1971年)。
山城博明さん:
基地のない沖縄にしてくれと、米軍から虐げられた生活はもう嫌だと
1970年のコザ暴動では、アメリカ兵による度重なる事件・事故にマグマのように吹き出した民衆の怒りを目の当たりにした。
山城博明さん:
焼き焦げた車のそばを野球少年が何事もなかったかのように、自転車に乗って野球の練習に行くんですね。やっぱり日常の中に基地があって、基地に対する感情というのは、日頃からこういう風に持っているものだと理解しました
1972年に本土復帰後も残った米軍基地 最前線で基地問題と向き合う
2021年8月13日、山城さんは17年前と同じ場所から沖縄国際大学にレンズを向けていた。
山城博明さん:
昨日のことのように鮮明にまだ残っていますからね、ヘリコプター墜落事故そのものは
2004年8月13日、宜野湾市の沖縄国際大学に米軍の大型ヘリが墜落した事故。
山城博明さん:
壁にあたった黒こげの匂い
山城博明さん:
一番酷かったのは、もう全く規制線の中に入れなくて…
民間地への墜落事故でありながらアメリカ軍が規制線を敷く現場。
山城博明さん:
現場保存のために中に入れないというのはあるんですけど、あれはもう余計厳しかったですね。米兵に捕まりそうになったんですけど、うまくかわした。これはずっと永遠に残る基地被害の象徴的な写真だと思う
“皇太子ご夫妻 火炎瓶襲撃事件”の瞬間も撮影 沖縄への思いは…
半世紀以上に渡り取材してきた中で、山城さんが最も印象に残っている写真がある。
1975年、上皇さまが皇太子時代に沖縄・糸満市の「ひめゆりの塔」を訪れた時に一部の過激派が火炎瓶を投げつけた事件。山城さんはその瞬間を捉えていた。
山城博明さん:
ひめゆり同窓会の会長さんから説明を受けられていたので、両殿下がひょっとして涙でも流すんじゃないかと思って表情ばかり狙っていた。怪しい影が出てきたので、シャッターを反射的に押したというだけです。皇室が戦後初めていらっしゃるので、歓迎しようという意見と戦争責任をはっきりさせないで沖縄に来るのはいかがなものかという意見があって。そういった時に起きた事件でしたので非常に複雑な思いでした
沖縄戦によって県民の4人に1人が犠牲となり、焦土と化した故郷。
その後、27年に及ぶアメリカ軍の統治を経て復帰を果たすも基地が残り続ける現実。
山城博明さん:
写真は社会を変えることも出来るし、事実を事実として伝えて、その中から真実を見つけて頂ければいいなと思います
2022年に本土復帰50年の節目を迎える中、山城さんの目に映る沖縄とは?
山城博明さん:
復帰50年が経ったけど何も変わっていないですよね。米軍支配時代から復帰があって、ヤマトの世になってからも何も変わっていない。写真を始めたのが沖縄闘争ですから、沖縄のカメラマンである限り沖縄闘争を撮り続けなければいけない、宿命みたいなものを感じますね
(沖縄テレビ)