2018年、山口県で行方不明となった2歳の男の子を無事救助し、一躍時の人となった尾畠春夫さん。大分県日出町に住む80歳だ(2020年1月現在)。
“スーパーボランティア”として脚光を浴びた尾畠さんだが、その活動は昨日や今日に始まったことではない。50歳で由布岳の登山道整備をはじめて以後、さまざまなボランティア活動に参加。東日本大震災をはじめ、数々の被災地にも足を運んでいる。
尾畠さんは、いかなる思いでボランティア活動を続けてきたのか。前編では、その生い立ち、そして“スーパーボランティア”と呼ばれるまでを追う。
“スーパーボランティア”と呼ばれた男・尾畠春夫
2018年8月、山口県で2歳の男の子が行方不明になった。最悪の事態も予想される中、無事救助の一報が入ったのは4日目。発見者は、ボランティアで捜索に駆けつけた尾畠春夫さん。当時78歳だった。
この記事の画像(22枚)「うれしかったです。小さな命が助かったなと思って。それだけ」
カメラに囲まれ、涙をこらえながら懸命に話す一人の好々爺。捜索開始からわずか30分ほどでの発見に、世間は沸いた。
翌日、大分県日出町にある尾畠さんの自宅に、多くの報道陣が駆けつける。日焼けした肌にオレンジ色のTシャツを着た尾畠さんの姿は、全国に知れ渡ることとなった。
「当たり前のことをしているだけ。短時間で会えて、自分でじかに抱きしめて、お母さんに渡したというのは、最高に幸せ。ボランティア冥利に尽きるなと思った」
山口県での男児救助で、一躍時の人となった尾畠さん。そのボランティア活動は、もともと長きにわたるライフワークだった。
例えば、2011年に起こった東日本大震災。
尾畠さんは、甚大な津波被害の出た宮城県南三陸町で、自分の車に寝泊まりをしながら災害ボランティアとして活動していた。
尾畠さんはこのとき「思い出探し隊」として、瓦礫の中から写真などの思い出の品を探し、きれいに洗って被災した人たちへ返す活動に取り組んでいた。隊長を務めていた尾畠さんは、ボランティアのリーダー的な存在だった。
震災直後だけでなく、自宅と南三陸町の行き来しながら、延べおよそ500日間活動した。
日出町での日々の暮らしは、質素倹約。一か月の生活費は、55000円の年金だけだ。食事には野草を食べ、無料で入れる別府市内の秘湯に通う。
「年金生活だからね、有料のお風呂には入れないの。あはは」
息子と娘はそれぞれ独立し、孫も5人いる。「妻は数年前から旅に出ている」(尾畠さん)ため1人暮らし。ただ、夫婦の関係はずっと続いている。
「同じ一日だったら、明るく生きようと思っているんです。毎日明るく生きていたら、生きてるあいだはずっと明るく生きられる」
農作業で学校に行けず…。勉強を教えてくれた同級生に恩義
1939年10月、尾畠さんは現在の大分県国東市に生まれた。7人きょうだいの4番目。貧しい家の事情で、小学生から農家へ奉公に出された。「そのときは大変だった」と尾畠さんは回顧する。
「小学校5年から朝5時に起きて、一人で仕事をするんですよ。馬を引いて、馬に食べさせる芋やかぼちゃ、麦なんかのわらをのけて食べて、空腹を満たしていた」
学校に行くのは、どしゃ降りの時だけだった。しかし、同級生に救われた。
「何人かの友だちが、勉強教えてあげるよって言ってくれた。今でも恩義に感じてる」
中学校を卒業した後は、各地の鮮魚店に弟子入りし、10年間修行を積んだ。そして自分の店を開く決心を固めて向かったのは、高度経済成長の真っ只中にある東京だった。
3年間、鳶職をして資金を貯め、29歳で大分県に戻り、別府市で鮮魚店「魚春」を開業。以後36年間、地元の人たちに親しまれてきた。
現在、魚春のあった建物は、別の人が暮らす住宅になっている。
「ふるさとの山に恩返しを」50歳で登山道整備ボランティアに
15年以上前から尾畠さんのボランティア活動を映像に収めていたのは魚春の隣に住む林孝子さんだ。林さんは、60代前半だった当時の尾畠さんをこんな風に振り返る。
「お店も繁盛していましたから、忙しかったと思います。ご家族とは、とても仲良かった。とても子煩悩だし、家族思いなんです」
夜遅くに帰宅し、自宅のガレージにいる尾畠さんを目にしたのがきっかけだ。
「聞いたら、市場でもらってきたひもを使って、ボランティアに持っていく網を編んでいるんです、と」(林さん)
尾畠さんが取り組んでいたのは、地元で豊後富士と親しまれる由布岳での、登山道整備のボランティアだ。趣味の登山で全国の山を訪れた際、登山道整備をしている人の存在に気がついて、感銘を受けた。自分もふるさとの山に恩返しがしたいと考え、50歳のときに活動を始めた。
「ボランティアって日本語で言ったら無償奉仕だけど、人のために役に立ったら嬉しいかなと思って」(尾畠さん)
65歳で魚春を閉めてからは、より熱心にボランティア活動に励んだ。当時の「将来の夢は?」という林さんの問いに、尾畠さんは今と変わらぬ笑顔で答えている。
「元気な間は、今のボランティアを続けたい」
それから15年あまり。
「尾畠さんは当時以上の情熱で、ボランティア活動を実行していると思います。死ぬまで人のために尽くしたいというのが、尾畠さんの本望でしょう」(林さん)
およそ30年にわたって尾畠さんが由布岳で培った経験は今、災害ボランティアに活かされている。
「『かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め』って言うからね。今現在、健康でおられるのも、社会の皆さんからいろんなことでお力添えいただいたから。自分が元気でこの世にいる間は、その恩返しをさせてもらいたい。ただそれだけです。あまり深い理由はないです」(尾畠さん)
震災の記憶を風化させないために。本州一周約4000km徒歩の旅
東日本大震災から3年を迎えた2014年4月。尾畠さんから聞いたのは、本州一周、およそ4000kmを徒歩で巡る旅の計画だった。東日本大震災の復興を願って旅をするという。
「1日でも早く復興してもらいたいなって気持ちで、毎日歩かせてもらおうかなと思って…」
いつも大きな笑顔で笑っている尾畠さんも、このときばかりは涙をこらえきれない。
東日本大震災から3年、ボランティアとして大分と被災地を行き来する中で、尾畠さんは震災の記憶の風化を感じていた。
お遍路さんの格好で、リュックサックに掲げた旗には「絆」「東日本大震災の復興を願う旅」の文字が刻まれている。
「この旗を見た人が、もし大震災の被災者の人の復興を願う気持ちを忘れかけていたとしたら、思い出してもらいたい。そして、明日は我が身だよっていうのを私は言いたいの」
野宿を続け、風呂にも入らない過酷な旅。果たして何か意味はあるのか――。
しかし尾畠さんは歩みを続け、道で遭遇した若者に声をかけられれば、「早く復興してくださいと心で思ってあげて。岩手、宮城、福島の方を向いてね。絶対に通じる」と伝える。そんな毎日が続いた。
出発から2カ月半。被災地・宮城県南三陸町で尾畠さんが再会したのは、牧野毅さん、八千子さん夫婦だ。尾畠さんは、2人を恩人と慕っている。
牧野さん夫婦との出会いは、2006年。尾畠さんが66歳で挑んだ、鹿児島県佐多岬から北海道宗谷岬までの約3000kmを歩く日本縦断の旅でのことだった。2人は尾畠さんに声をかけ、食事でもてなした。
震災の発生直後、2人と音信不通になったことを心配し、尾畠さんは車で南三陸町へ駆けつけ、そのままボランティアを始めた。東日本大震災での被災地支援は、牧野さん夫婦への恩返しでもあったのだ。
しばらくの歓談の後、再び別れのとき。尾畠さんは八千子さんに、「元気でいてください。待ってますよ、お父さんと大分県に来てくれるのを」と言葉をかける。固く握手をして、旅立つ尾畠さん。見送る八千子さんの目に、涙があふれ出す。
再び牧野さん夫婦の厚意に触れ、尾畠さんも涙をこらえきれない。
「5をしたら、10の親切を返してくれるから……。九州までに会う皆さんに、震災を忘れないでください、思い出してくださいと、またお願いしようと思っている。自分では、今それぐらいしかできない。それが精一杯の恩返しだから」(尾畠さん)
4000kmの旅は、139日間で達成された。
その間、出会った人たちに尾畠さんの思いがしっかりと伝わる様子を目の当たりにした。その数は決して多くはないが、少しずつでも思いが伝播したという事実こそ、今回の旅の意味だったのだろう。
行方不明児救助の裏に、11歳で亡くした母への思い
翌2015年3月11日。被災地以外の場所では、災害の記憶は次第に薄れつつある。しかし現実には、災害は私たちの生活と隣り合わせだ。
「大分県の人も九州の人も、明日は我が身だということは常に思っていないといけないなと私は思う」
尾畠さんはたびたびそう口にする。
2016年の熊本地震、2017年の九州北部豪雨、2018年の西日本豪雨。その後、全国で自然災害が相次いだが、尾畠さんは各地の被災地でボランティアに汗を流した。
休むことなくボランティア活動に精を出す尾畠さん。被災した人たちから感謝の手紙を渡されることも。
「西日本豪雨災害から、ずっと天応(広島県呉市)の復興に力を貸してくれて、本当に本当にありがとうございました。春夫さんの明るさと強さに、どれだけ町民が勇気をもらったか、計り知れません」
手紙を読み上げる尾畠さんの声が、涙に震える。
「春夫さんに出会えて私達は幸せです」
「こういう手紙をもらうと、大分県で過ごす時間がもったいないという感じですね…」と尾畠さんは続けた。
尾畠さんが山口県で2歳の男の子が行方不明になったことを知り、急遽捜索に向かったのは、この直後だ。冒頭でも触れたとおり、男の子を無事発見したことで、尾畠さんは“スーパーボランティア”と呼ばれ、脚光を浴びるようになった。
実は、尾畠さんは11歳の時に母親の富日さんを41歳で亡くしている。そのため、「母親というものがものすごく恋しい」というのだ。
「家族を失うというのが、一番辛いよな。でも、生きてさえすれば、必ず誰も見捨てない。誰かが必ず手を差し出してくれる。自分もそうだった。人に優しくしてもらったから自分ができることを少しだけでもお手伝いさせてもらいたいと、ボランティアをしている」
尾畠さんは、2016年にも大分県で行方不明の女の子の捜索に参加している。困っている人に手を差し伸べたいと思い、行動する姿は、これまでとずっと同じこと。しかし尾畠さんを取り巻く環境は、山口県での男の子の発見を境に一変してしまった。
後編では、“スーパーボランティア”と呼ばれるようになってからの尾畠さんについて追う。 “長年の夢”だったという東京~大分約1100km徒歩の旅の意図と、その行方は?
【後編】「スーパーボランティアさえなければ……」尾畠春夫が東京~大分間徒歩の旅に挑んだ理由