子規と漱石の足跡を歩いて見えた松山の文化
テレビ愛媛が毎月愛媛県内の市町をひとつ取り上げ、その魅力を発信する「愛媛20市町つながるっ!プロジェクト」。
26年10月は「松山市」で、この夏に復活した「愚陀仏庵」を取り上げる。
松山城の城山を襲った豪雨災害を乗り越え、ついに再建された施設と、俳聖・正岡子規と文豪・夏目漱石がたどった街の足跡を専門家に案内してもらい紹介する。
今回の取材では、なんと大街道の入口にある“あの文字”が子規の直筆に由来するという意外なエピソードも飛び出した。
親友だった漱石と子規が暮らした場所
かつて俳聖・正岡子規と文豪・夏目漱石が暮らしたこの場所には、今の時代にも“つながるっ!”様々な発見があった。
松山市中心部にたたずむ木造2階建ての和風建築。
それが「愚陀仏庵」だ。
元々、市内二番町にあった愚陀仏庵は、明治28年(1895年)に、夏目漱石が松山に赴任した時の下宿先で、親友の正岡子規が居候し、ともに暮らした場所として知られている。
当時の建物は太平洋戦争で焼失したが、1982年に松山城の城山にある萬翠荘の裏手に復元された。
しかし、この建物も2010年の豪雨による土砂崩れで倒壊した。
そして今年7月、子規の母校にあたる番町小学校のプール跡地に再建され、約16年ぶりに復活した。

1階は子規の句会、2階は漱石の部屋
今回案内してくれるのは、館内の展示物の制作などに関わった坂の上の雲ミュージアムの上田一樹学芸員だ。
早速、新しくなった愚陀仏庵におじゃましてみると…
そこは落ち着く和の空間。
まず、建物の1階は6畳と4畳半の和室が広がっている。
現在は1時間800円で、句会や茶会など市民の文化活動の利用などに貸し出されている。
上田学芸員によると、今回の再建に合わせ「当時のそのものではないが、2人が暮らした様子を少しでも感じられるようレトロな調度品を用意した」そうだ。

坊っちゃんの直筆原稿のレプリカ
明治時代、2人が同居していた時は、主に子規が1階を使っていたという。
「座布団がたくさんありますよね。子規から俳句を教えてもらいたいと、『松風会』という松山の俳句結社のメンバーがいつも何人か集まって、句会をやっていた」と教えてくれた。
当時は俳句仲間5、6人が集まって句会が開かれ、時には漱石が参加することもあったんだとか。
続いて、漱石が過ごしていたという2階へ…
「英語の先生をしていたので、おそらく2階で授業の準備とかをして過ごしていたのでは」とのことだ。
室内に気になるものが…
小説「坊っちゃん」の直筆原稿のレプリカだ。
言わずと知れた漱石の代表作「坊っちゃん」。
漱石が松山を離れて約10年後に書かれたものだが、当時の創作の息吹に触れてもらおうと、原稿のレプリカが展示されている。
ちなみに「坊っちゃん」は今年、発表から120年を迎えた。
レプリカとはいえ、筆跡がよくわかり、人柄も文字から見えてくる気がするようだ。
この建物の隣にあるのが「ガイダンス棟」。
漱石と子規の絆を描いたマンガの上映などが行われているほか、当時2人が愚陀仏庵でどう過ごしていたかなど、イラスト付きで解説するパネルなども設置されている。

石手寺「凶」のエピソードと三重塔の句
子規と漱石に興味を持った内木アナは、さらに2人の足跡をたどるべく、愚陀仏庵を飛び出し石手寺に向かった。
上田学芸員は「『散策集』という子規が愚陀仏庵にいた時に、松山の近郊をめぐって書いたものがあって、ここにたくさんの句が残されている」と説明してくれた。
子規が市内を散策して俳句を詠んだり、そこで出会った風景や出来事を記録した書物だそうだ。
これによりますと、明治28年9月20日に子規は俳句仲間の柳原極堂と一緒に、ここ石手寺を訪れたのだとか。
上田さんに案内してもらったのは、国の重要文化財にも指定されている石手寺のシンボル「三重塔」。
「子規がここでおみくじを拾ったが、それが『凶』だった」と上田さんが教えてくれた。
子規にとっても記憶に残る出来事だったのか、この逸話は俳句にも残されているという。
「身の上や御鬮を引けば秋の風」
「秋の風が身に染みたのかもしれないが、子規は結核を患っていたので、『凶』に思い当たるところがあったのではと想像される」と上田さん。
自身が置かれた状況に当てはまっていると思ったのかもしれない。

大街道には子規の直筆が刻まれていた
さて再び、松山市中心部の大街道へ。
先ほどのエピソードから約2週間後の10月6日、現在は商店街の入口がある一番町交差点あたりを道後散策帰りの2人が訪れたそうだ。
「散策集に2人が『てには狂言』を見たことが記されている」と上田さんが話してくれた。
この場所にはかつて「新栄座」と呼ばれる芝居小屋があり、収容人数約200人という当時としてはかなり大きな規模だったそうで、2人はここで能狂言に歌舞伎などの要素が加わった芸能「てには狂言」を鑑賞した。

今も根づく俳句文化
「2人は学生時代、『寄席』が共通の趣味で親しくなった。狂言も楽しんで見たのでは?」
上田学芸員は、そんなふうに解説してくれた。
そして、大街道の「ある場所」に、子規の「あるもの」が刻まれている。
それが「正岡子規の直筆」だ。
商店街の入り口にある照明の柱に書かれた「大街道」の文字。
道を行き交う人が普段から目にするこの文字が、子規の直筆の句集から筆跡をとり作られたものと知っている人は少ないかもしれない。
松山市の中心・大街道、子規や漱石が歩いた時代から風景は一変した。
しかし商店街は今、誰でも自由に投句できる「俳句ポスト」が設置されているほか、毎年夏は高校生が青春をかけて戦う「俳句甲子園」全国大会の予選の舞台にもなり、かつて2人の偉大な文化人が暮らしたように、文化の中心になっているのは変わらない。

文化は今も松山のまちに深く根づいている
2人が親しんだ「文化」は、今も松山のまちに深く根づいている。
「子規と漱石が今から130年前に大街道を歩いて2人が俳句を作って、そういった俳句文化が、令和の時代に脈々と受け継がれていっているといってもいいのでは」上田学芸員はしみじみと語った。
「街を巡ったが、実際に歩くとより漱石や子規を身近に感じられた気がした」と語る内木アナウンサー。
上田学芸員も「この愚陀仏庵を拠点に、漱石や子規も動いたので、ここを拠点にゆかりの場所や史跡をめぐってもらいたい」と話してくれた。
文学や文化に触れる新たな拠点となった愚陀仏庵で、松山の魅力を再発見してみませんか?


