日本の、そして富山県内政界に強い影響力を誇った綿貫民輔さんが今月18日に死去したことがわかりました。
綿貫さんは生前、政治家を志した理由はふるさとの厳しい自然にあったと答えています。
*綿貫民輔さん
「私の父は淡路島出身。雪が降らず、1年中お米がとれる。雪国に生まれたことに悲観的な気持ちでいたが、雪にうずもれている世界を雪にめげない地域にしたいという夢ができた」
綿貫さんは昭和44年の初当選以来、13期連続で当選を果たします。
県西部を中心に固めた支持基盤は「綿貫党」とも呼ばれ、平成8年の選挙では全国最多の18万票を獲得しました。
昭和60年に中曽根内閣で国土庁長官として初入閣伊豆大島の三原山噴火では、災害対策本部長として指揮にあたりました。
また、地方の時代を切り開くとされた第四次全国総合開発計画、いわゆる四全総をまとめ道路整備の中には能越自動車道や東海北陸道の整備も盛り込まれました。
そして、平成2年には海部内閣で建設大臣を務めました。
*綿貫民輔さん
「建設省は地域の活性化や内需主導型の経済にきわめて大きな使命をもっている」
政治家としてのキャリア、そして面倒見の良さも評価され、翌年の平成3年に自民党の幹事長に就任。
政権与党のまとめ役を果たしました。
平成12年、衆議院の議長に就任。在任は3年3か月。派閥や政党の枠を超えて、議会の改革にのぞみました。
しかし、平成17年に自民王国富山を揺るがす事態が起きます。
小泉内閣の郵政民営化に反発し、自民党を離党。亀井静香氏とともに国民新党を結成しました。
富山3区は自民党対綿貫党の構図となりますが、綿貫さんは危なげなく13回目の当選を果たします。
そして、影響力を見せつけたのは平成19年の参院選自民党の公認候補に挑んだ民主、社民推薦の無所属候補を公示前日に党として推薦。自らも街頭に立ち、結果は無所属候補が勝利しました。
その後、綿貫さん自身は選挙区の出馬は見送り、比例で敗れますが、40年におよぶ議員人生の終わりに表情は晴れやかでした。
*綿貫民輔さん
「こういう結果になりましたけれども、私は地元に対してのけじめはしっかりつけてありますし、政治家として一人の人間として全くなにも思い残すことはない」
綿貫さんはその後、自民党に復党。全国道路利用者会議会長など要職を務め、日本の政治を支え続けました。
