施設に足を踏み入れると、広いフロアにずらりと等間隔に並んだ人型ロボットの姿が目に飛び込んできた。その脇に立つ人が腕を動かすと、連動するようにロボットの腕も動く。ペットボトルをつかんだり、調味料の入った瓶を振ったり、服をたたんだり…。人間にとっては何気ない日常の動作を、ロボットは何度も、何度も繰り返していた。

ここは、中国・北京市に2025年に開設された「人型ロボットデータ訓練センター」。
中国が国を挙げて進める人型ロボット開発の最前線ともいえる施設だ。
取材を進めると、中国の人型ロボット開発を巡る競争が、単に高性能な機体を作るだけではない、新たな段階に入っていることが見えてきた。
人間なら簡単な「つかむ」「運ぶ」を1000回
センター内には、キッチンや物流現場など、人が暮らし、働く環境を想定した様々な場面が再現されている。そこで行われているのが、AIに学習させるための「動作データ」の収集だ。

VRやモーションキャプチャーを使ってロボットを操作すると、人の腕や関節の細かな動きに連動して、ロボットの腕なども動く。物をつかむ、持ち上げる、運ぶ…。人間ならほとんど意識せずにできる動作だが、ロボットが同じように動くためには、一つ一つの動きをデータとして学習する必要がある。

センターの朱凱総経理によると、例えば「机の上にあるコップを取る」という一つの動作を覚えさせるだけでも、およそ1000回分のデータを収集する必要がある。
そのデータを使ってAIモデルを開発し、実際のロボットで動作できるよう調整していくという。

訓練の内容は、単純な動作にとどまらない。取材中、目をひいたのが「書道」だった。

人の動きに合わせ、ロボットが筆を動かしていく。途中で何度も筆を机の上に落としながら、時間をかけて「迎」の文字を書き上げた。
物流現場で物を運ぶような大きな動きだけでなく、筆先を操るような繊細な動きまで、人間が日常生活で行う動作は非常に多く、複雑だ。人間にとっては何気ない細かな動きこそ、ロボットにとって習得が難しい。
太極拳はできても「コップを取って」ができない
中国では近年、人型ロボットが人間顔負けのスピードで走ったり、軽やかに踊ったりする映像を目にする機会が増えた。

センターにあるロボットも、太極拳のような複雑な動きを私たちに披露してくれた。
では、これほど自在に体を動かせる人型ロボットが、なぜまだ家庭に入り、人間の代わりに家事をすることができないのか。朱氏に聞くと、返ってきた答えは明快だった。
朱凱総経理:
ロボットの今後の発展を左右するのは、ハードウェアではなくデータです。
ロボットの「体」にあたるハードウェアの性能はすでに大きく向上している。
一方で課題となっているのが、その体を「どう使えばいいのか」を学ぶためのデータだという。
朱凱総経理:
なぜ今のロボットは、まだ人のために働くことができないのか。データが不足しているからです。
人間なら、形や大きさの違うコップでも、それを見て手を伸ばし、力加減を調整して持ち上げることができる。

しかし、ロボットが現実の世界で様々な状況に対応するためには、そのための膨大な学習が必要になる。
高性能な「体」を作る技術が進歩する中、次の課題は、その体を使いこなす「頭脳」をどう育てるか。その鍵を握っているのが、様々な動作データの蓄積なのだ。
「50万時間」に対し、必要なのは「1000万時間」
では、そのデータはどれほど足りないのか。
朱氏によると、現在、人類が収集したロボットの動作データは、研究者の間では50万時間程度とみられている。
一方で、様々な環境に対応できるAIモデルを開発するためには、少なくとも1000万時間規模の動作データが必要になるとの見方があるという。つまり、必要とされる量との間には、まだ大きな開きがある。

朱氏は、ロボットが実際に家庭に入り、人間に代わって様々な仕事をこなすようになるまでには、さらに5~8年以上かかるとみている。
だからこそ、このセンターでは来る日も来る日も、人がロボットを動かし、何げない日常の動きのデータを蓄積している。
ロボットを動かすためのデータが、まるで工場の製品のように「生産」されている。センターは、こうして収集したデータをロボット関連企業に提供、販売している。
ロボット開発の裏側で、「データを作る」という新たな産業が生まれつつある。
政府が主導 国内80~90カ所の訓練施設
こうした施設は北京だけではない。朱氏によると、中国国内には現在、80~90カ所ほどのデータ訓練施設があるという。その急速な整備を支えているのが、政府の強力な後押しだ。
多くのロボットや人材が必要な訓練施設には、多額の初期投資がかかる。中国では国有資本が投入されるケースも多く、今回取材した北京の施設も地元政府が主導し、企業と共同で運営している。

さらに政府は企業と協力し、工場や物流、店舗など、実際の利用環境を想定してデータを集める実証の場も整備している。
訓練施設だけでなく、様々な環境でデータを集められる場所も政府主導で整備する。大量かつ多様なデータを集められる環境そのものが、中国のロボット開発を支える強みになっている。
人型ロボット開発の「次の競争」
これまで中国の人型ロボット開発を巡っては、走る、跳ぶ、踊るといった、目を引く動きやハードウェアの性能が注目されることが多かった。

しかし、今回取材した訓練センターで繰り返されていたのは、物をつかみ、持ち上げ、運ぶといった、一見すると地味な作業だった。
人間なら意識することもない一つ一つの動きを、何度も繰り返してデータとして蓄積する。
その膨大なデータが、ロボットが家庭や工場で周囲の状況に対応しながら動くための「頭脳」を育てていくのだ。
高性能な「体」を作る競争から、その体を自在に使いこなすための「データ」を集める競争へ。中国の人型ロボット開発の最前線では、すでに「次の競争」が始まっていた。

