鹿児島県姶良市と霧島市に甚大な被害をもたらし、1人が命を落とした豪雨災害から、8月7日で1年が経過した。かつての日常を取り戻しつつある地域がある一方、復旧工事がいまも続く場所もある。被災地を訪ねると、そこには災害を忘れることなく、それでも前を向いて歩み続ける人たちの姿があった。
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黄色い旗50本、復興の願いを一斉に掲げた朝
8月7日、午前8時半前。姶良市加治木町の網掛橋には、黄色い旗を手にした周辺住民や地元高校生など約50人が集まった。
「せーの、行きますよー!」
かけ声とともに、復興のシンボルである黄色い旗約50本が一斉に掲げられると、橋の周辺が一気に明るく染まった。

霧島市と姶良市を結ぶ主要道路が通る網掛橋は、1年前の豪雨で橋を支える土台が濁流にえぐられ、3カ月にわたって通行止めとなった。付近の店では客足が激減し、周辺住民の生活は一変した。
この日、旗を掲げたのは、地域を元気にしようと結成された「網掛橋復興臨時通り会」と地元の高校生たちだ。1年前の災害を忘れず、未来への希望を発信したいという願いが込められている。

同会の川村吉一代表は、こう語る。
「災害で大変だったことを思い出したりしながら、みんなの幸せ、希望、平和を願って旗を揚げたいと思って」

そして、災害を経て最も強く実感したこととして、こう続けた。
「人と人がすごく近くなった。『助け合う』、そういうのが強くなった」
加治木高校2年の篠原輪さんも、この1年で気づいたことがあると話す。
「地域との交流で、こんなにも温かいつながりを持てるということをこの『通り会』を通して初めて知ることができた。今の1年生にもこういう思いをつないでいけたら」

「3分の1以下」から再生した、創業200年の饅頭屋
網掛橋のそばで加治木まんじゅうを販売する美坂饅頭屋は、創業200年以上の老舗だ。店主の美坂昌徳さんは、橋が通行止めだったあの時期をこう振り返る。
「当時の客は3分の1以下。ほとんど車が通らない状態だった」

それでも、客が遠回りをしながら買いに来てくれたという。
「お客さんに気を遣ってもらって、買いに来てもらったりした。大変ありがたいと思っていた。人のつながりを一番感じた」
橋の復旧とともに客足は戻りつつある。しかし美坂さんが一番の財産として語るのは、売上ではなく「人とのつながり」だ。老舗の底力を支えたのは、地域との絆だった。

通学路の橋はまだない――竜門小学校の現状
一方、全ての被災地でかつての日常が戻ったわけではない。
姶良市の竜門小学校の前には、かつて児童の通学路となっていた橋が架かっていた。しかし豪雨の影響でその橋は失われ、現在もその姿はない。取材時点では、人が通れる仮設の橋を造るための作業が少しずつ進んでいる状態だ。

姶良市によると、仮設橋は8月中に完成する見込みで、2学期が始まるころには児童も利用できる見通しだという。子どもたちが安心して通学できる日常が戻るまで、もう少し時間がかかる。
水位の印が語るもの――霧島・日当山地区の観光施設
霧島市の日当山地区でも、大きな浸水被害があった。しかし、取材時点では地産地消の野菜や弁当、鹿児島の特産品が並ぶ観光施設「日当山無垢食堂」に活気が戻っていた。
施設の一角には、あの日の記憶を伝えるものが残っている。タイルの色が微妙に変わった部分に、目印が貼られているのだ。店主の徳永智子さんが説明する。

「お客さまが来たときに『大体ここまで水がきた』というのを目安で貼っています」
なぜ、その印を残し続けるのか。
「日常は当たり前じゃないことを痛感した日だったので。これからも頑張って行きましょうという気持ち」

東京から帰省した人が施設を訪れ、その印を見てこう話した。
「泥水がここまできたという線があった。今はきれいなのにそんなことがあったとは」
水位を示す小さな目印は、訪れる人に災害の記憶と日常の尊さを静かに伝え続けている。
絆をたよりに、前へ
豪雨災害から1年。網掛橋には旗が翻り、老舗の饅頭屋に客が戻り、観光施設には笑い声が響く。しかし竜門小学校の前には、まだ橋がない。復旧の歩みは地域によって異なり、被災地の「今」は一様ではない。
それでも被災地の人々に共通するのは、人とのつながりを力に変えて前へ進む姿勢だ。「助け合う」という言葉を川村代表が口にしたように、災害はコミュニティの絆を試すと同時に、それを深めることもある。
1年という節目は、終わりではなく、これからへの出発点だ。
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