自分が名前を書いたら、1年以内に戦地に散る。「特攻隊」の作戦命令書を書く任務に就いていた津山市の100歳の男性が長年、胸にとどめてきた“記憶”を語った。

「あなたは1年以内に死にます」それが「特攻」の出撃命令書 自分が名前を書いた仲間は戦地で散る運命
津山市に住む多胡恭太郎さん(100)。太平洋戦争末期、台湾北部の飛行場で仲間の名前を、ある作戦命令書に書く任務についていた。
「一緒に飯を食ったやつの名前を書くんだから手が震える。今でも目をつぶるとそいつらの顔が浮かんでくる。頭の中から離れない。自分が(名前を)書いて死んだやつのことが」
それは、命と引き換えに敵艦に突撃する特別攻撃、「特攻」の出撃命令書だった。
「次出ていく人を「あなたは1年以内に死にます」という命令書を書く。それが作戦命令書。私が名前を書いたら、その人は1年以内に死なないといけない」

志願し入隊した陸軍飛行学校 いずれ特攻隊員となるはずが…高い階級の代わりに課された「条件」
津山市で生まれ育った多胡さんは得意のスポーツを活かして関西の大学に進学。大学2年生の頃に自ら志願して陸軍飛行学校に入隊した。入隊直後、位の高い階級を与えられる代わりにある条件が課されたと多胡さんは言う。
「あなたは特別操縦見習士官です。特別操縦見習士官は、入るとすぐに見習士官になれる。その代わり1年以内には戦死すると思ってください。特別攻撃隊(特攻)に行く要員ですから」
特攻に行き、戦死に至るという条件提示。それに対し多胡さんは「われわれの時はどうせ死ぬんだから別になんとも思わなかった」そうだ。
本来なら多胡さんも特攻隊員となるはずだった。しかし・・・

「達筆」がゆえに定められた“運命”…100年の人生で鮮明に覚えてしまった戦友の最期
「多胡恭太郎見習士官は第九飛行団司令部に転属を命ずる」
転属を命じられた多胡さん。達筆が見込まれ、自分ではなく仲間を送り出す任務を任されることになった。
「何かと思ったら字がうまかったから書記として採用された。それで死ぬのを助かった」と語る多胡さんだが、助かったとはいえ、命令書に名前を書いた10人余りの仲間のことは今でも、誰一人として忘れることができないと言う。
「あいつはああ逝ったな、あの時、ああいう風に死んだな」
多胡さんは鮮明に覚えている。「若い時の記憶だから忘れない。これは悲しいものだ」と。
「一緒に飯食った人の命令書を書いて、私の書いた命令書によって飛行機で飛んで行って死ぬ。もう二度とあんなことしたくない」
任務とはいえ、自らが作成に携わった命令書を元に戦友は特攻に…そして迎えた、戦地での最期。
「この気持ちは誰にも分からない」

二度と思い出したくなくて自分の胸にとどめてきた記憶…後世に伝えたいある思い
本当は、二度と思い出したくない記憶。多胡さんは長年、記憶を自分の胸にとどめてきました。記憶を後世に伝えることを決めたのには理由があった。
多胡さんは当時の情景を込め、訴えるように語る。
「飛行機が目の前の滑走路を出ていく。手を振って操縦かんを握って手を振って、出ていく。もう絶対に帰らない。そういうことをみんな忘れていると思う。彼らはなんとか助からないかな、という気持ちは最後まで持っていた。これだけは忘れないでほしい」

戦後は高校の教員やしょう油製造会社を経営…孫やひ孫にも囲まれ100歳に
終戦後は津山に戻り、高校の教員として働いた後はしょう油の製造会社を経営するなどがむしゃらに働いた多胡さん。
3人の子供を育て、孫やひ孫にも囲まれながら2025年5月、100歳の誕生日を迎えた。

「日本の平和は尊い汗と血で勝ち得たもの」…散っていった人の涙、忘れないで
多胡さんは改めて私たちに訴える。
「平和は勝手に来たものじゃない。みんなの犠牲の中でこの日本の平和があるということをみんな知らない。みんな命を懸けて日本を守ってきた、その尊さをみんな知らない。平和は尊い汗と血で勝ち得たものだということを忘れないでほしい。散っていった人の涙を忘れないでほしい」
戦後80年。失われた多くの尊い命と残された人の思いを私たちは心に刻み続けなければならない。
(岡山放送)
