特集はシリーズ戦後80年です。
こちらは太平洋戦争末期、現在の鹿児島県南さつま市・万世で撮影された写真です。
子犬を抱いて微笑む17才から19才の少年たち。
彼らは80年前の昨日、昭和20年5月27日、特攻隊員として出撃し全員戦死しました。
このうちの1人の隊員のめいで、神奈川県で語り部として活動する女性が、鹿児島の子供たちに平和学習を行い、隊員たちが撮影された南さつま市・万世を訪れました。
伯父が特攻で戦死して80年、女性が抱いた思いに迫ります。
26日、鹿児島市のJR鹿児島中央駅前です。
戦争の語り部 神奈川・高徳えりこさん(58)
「お久しぶりです」
戦争の語り部として神奈川県の学校を中心に、平和授業を行っている高徳えりこさんです。
高徳さんが語り部となったのは、2枚の写真との出会いがきっかけでした。
戦争の語り部・高徳えりこさん
「新聞の書籍の広告欄に父にそっくりの顔写真が見えた。驚いて母親に見せた。そしたら父には戦争で亡くなった兄がいたことを教えてくれた」
こちらがその書籍の表紙となった写真です。
太平洋戦争で戦死した陸軍パイロット高橋峯好伍長。17才。
高徳さんが初めてその存在を知らされた、伯父でした。
さらに数カ月後、高徳さんは別の本で再び亡き伯父と巡り合います。
その本は「ユキは17才、特攻で死んだ」。
表紙の写真は子犬を中心に微笑む5人の少年特攻兵。
その中で少しおどけているようにも見える少年兵は、高橋伍長。
高徳さんの伯父でした。
高徳さん
「『身内だ』と一目ですぐわかるぐらい。(当時)17才だった私の息子にもとてもよく似ていて」
高橋伍長を含む少年兵たちは昭和20年5月27日、現在の南さつま市にあった陸軍・万世飛行場から沖縄に向けて出撃し、全員戦死しました。
高徳さん
「それまでは戦争は他人事だし、自分に関係ないと思っていたが、特攻の事実を次の世代の人々に伝えたいという強い思いで動かされて、誰が聞いてくれるという何も当てはなかったが、『とにかく平和学習の教材を作ろう』と」
戦争について勉強を重ねた高徳さんは教員時代の知り合いを通じて、8年前から語り部としての平和学習をスタートさせました。
そして今回、伯父が最後に飛び立った地、南さつま市で平和学習を行います。
生徒たち
「よろしくお願いします!」
小中一貫校・坊津学園。
高徳さんの話に耳を傾けるのは、5年生から9年生の生徒約60人です。
高徳さん
「これから皆さんと戦争について一緒に学んでいきたい」
高徳さんは、太平洋戦争が始まるまでの国際情勢を説明しました。
平和学習の大前提として、戦争が起こった背景を知ることが大切、と考えているからです。
高徳さん
「歴史は今に繋がっています。今日の話もただ歴史の知識として知っただけでなく、皆さんが平和を考える小さなきっかけになったらうれしい」
そして、伯父が命を失った特攻について語ります。
高徳さん
「(特攻は)パイロットを爆弾を抱えた戦闘機もろとも敵艦船に体当たりさせる作戦でした。峯好おじさんが戦争で亡くなってしまったことが悔しいし、すごく悲しい。二度と起こってほしくないという気持ちで次世代の皆さんに話を続けています」
高徳さん
「私の父(高橋伍長の弟)は幼かったので」
生徒
「お兄さん(高橋伍長)が特攻で戦死したことを(父は認識していなかった)」
生徒
「高橋伍長は17才?」
高徳さん
「17才だったんですね」
生徒
「こういう話を聞けてとてもうれしかったです」
高徳さん
「こちらこそありがとうございます」
高徳さん
「今の子どもたちに『知ってほしい』というメッセージを伝える事しかできないので、子どもたちがそれぞれ感じてくれたらいいな、と。もし行動に移してくれる子どもがいたらさらに喜びです」
鹿児島訪問2日目の27日、高徳さんは南さつま市の万世特攻平和祈念館にいました。
昨日、5月27日は高徳さんの伯父らが万世飛行場から出撃し、戦死した日です。
平和祈念館の管理員、小屋敷茂さんが高徳さんを祈念館の外に案内しました。
万世特攻平和祈念館・小屋敷茂さん
「子犬を抱いている第72振武隊(高橋伍長らの部隊)の撮影場所は、だいたいあの辺になるんです」
小屋敷さん
「ここにあった大きな松の木とか、後ろにあった兵舎などから(撮影場所は)大体この辺であろうと」
この松林で撮影されたと推測される写真で、少年兵たちは全員笑っていました。
高徳さん
「自分の弱さを出してしまったら、きっと崩れ落ちるような、泣き叫びたい気持ちだったと思う。一生懸命(恐怖を)押さえていたのかな。明るく振る舞っていたのかなと思います」
万世特攻平和祈念館に展示されている、高橋伍長ら5人の写真。
彼らの80回目の命日に、彼らが最後に飛び立った地で高徳さんは伯父と、そして伯父の仲間たちと向き合いました。
高徳さん
「こういう時代だから仕方なかった、とは思ってほしくない。『こういう人たちがいた、でもこれからは絶対繰り返してはいけない』と思ってほしい。なので私もおばあちゃんになっても声が出る限り語り部を続けたい。伯父さんやみんなのことを伝え続けたい」