岩手県盛岡市にある「盛岡駅前通」は、盛岡駅の東口と開運橋の間に位置し、商業施設や飲食店が立ち並ぶ地域だ。
ーー多くの人が行き交う盛岡の玄関口「盛岡駅前通」だが、この地名がつく前はどのような地域だったのか。
明治時代、当時の厨川村の端に位置していた「盛岡駅前通」は「平戸(へと)」という地名だった。
長年にわたり県内各地の地名について調査している奥州市出身の宍戸敦さんは、この地域について次のように説明している。
宍戸敦さん
「地図を見るとちょうど北上川と雫石川の合流する辺りに新駅を作るので、平戸という地名から方言で「窪地」という言葉もあるが川沿いの低地のところ、少し泥掛かった感じの場所だったと想像できる」
この旧平戸地域から雫石川を挟んだ辺りの旧本宮村側の地域は「平藤(へいどう)」という地名で現在も残っている。
「平戸(へと)」と「平藤(へいどう)」は元々一つの地域で、雫石川によって地域が分断され、別々の地名になったのではないかという説がある。
雫石川付近にある本宮の「平藤(へいどう)」という地域。「平藤(へいどう)」と「平戸(へと)」は名前がよく似ている。
ーーこの辺りは元々、人気のない土地だったが、何故この土地を盛岡駅に選んだのか。
宍戸敦さん
「駅はその当時の町の中心部から外れた場所に設置された。理由は駅設置によって、よそ者が問題を起こしたり、稲作に害が及ぶなど弊害が心配されたので中心から離れたところに設置されることになった。その一番の候補地となったのが厨川村の『平戸(へと)』だった」
盛岡駅開業から現在に至るまで「盛岡駅前通」は様々な変化をしてきた。
盛岡駅前商店街振興組合には、盛岡駅前通の歴史を物語る写真が保存されている。
盛岡駅前商店街振興組合 石田和徳理事長
「盛岡駅開業は明治23年、今から約135年前に開業した。駅ができてから開運橋も完成し、駅に関係ある商売の人たちが住み始めた」
開運橋は駅と盛岡の街をつなぐ大きな橋で、盛岡駅の開業に伴って架けられた。
盛岡駅前商店街振興組合 石田和徳理事長
「議会に諮るとかではなく、電車が来るということで当時の知事が自費で作ったと聞いている」
盛岡駅開業当時の知事である石井省一郎氏が中心となって、私費で開運橋を完成させた。その後、洪水や増加する交通量に耐えるため、2度の架け替え工事を行い1953年に現在の橋となった。
開運橋は実はもう1つの名前はある。それは「二度泣き橋」とも言われているのだ。
その理由はーー
盛岡に転勤で訪れた人が「こんな遠いところまで来てしまった』と橋を渡りながら一度泣く。
しかし、住んでみると盛岡の人の優しさや豊かな自然に触れ、去る時は「離れたくない」という思いが募り、泣きながら渡る。
こうしたエピソードが「二度泣き橋」の由来となったと言われている。
また「開運橋」は盛岡駅前の発展を運を開いて支えてきた。
石田理事長は「開運というのは、いい言葉なので『開運ホコテン』や『開運!のみあるき』など『開運』という言葉を使って盛岡駅前を盛り上げていきたい」と話していた。
盛岡駅開業から135年、時代とともに姿を変えてきた盛岡駅前通だが今もなお、盛岡の玄関口として多くの人を迎えている。