1981年、元日本陸軍少尉・小野田寛郎が沖縄戦終焉の地である糸満市摩文仁を訪れた。

終戦後30年間にわたりフィリピンのジャングルで戦闘を続けた小野田は、ゲリラ戦や諜報(ちょうほう)活動を行う秘密工作員の養成機関「陸軍中野学校」の出身者だった。

80年前の1945年、陸軍中野学校出身者が沖縄本島北部の少年たちを動員して、ゲリラ部隊を組織。中野学校出身者が少年たちを指揮して繰り広げた秘密戦の実相に迫る。

亡き友思い植えた桜

大宜味村(おおぎみそん)の小高い丘を彩るカンヒザクラ。

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沖縄県北部の大宜味村に住む瑞慶山良光(ずけやま よしみつ)さんが植えたものだ。

80年前の1945年3月、瑞慶山さんは日本軍が密かに組織した秘匿部隊に召集された。

瑞慶山良光さん:
長期訓練に行くのだと思っていました。約10日間ほどだと思っていましたが、そうではありませんでした

部隊名は郷土を守る「護郷隊(ごきょうたい)」。1944年10月から翌年の3月にかけて14歳から18歳の少年たちおよそ1,000人が召集された。

恩納岳(おんなだけ)に陣地を構えた「第二護郷隊」に16歳で召集された瑞慶山さんは、アメリカ軍との攻防の最中、同じ部隊で教官を務めていた親族の男性を亡くした。

瑞慶山良光さん:
恩納岳を撤退する5日ほど前に埋めました。赤痢にかかってひどくやせていたのです。最期は妻のことを言いながら目の前で亡くなっていきました

埋葬場所は現在、米軍の演習場となっていて立ち入ることができない。

瑞慶山良光さん:
そういうことを考えますとね、私がまだ生きているのは恩納岳の遺骨を収容できていないからなのです。それが本当に辛いのです

「第二護郷隊」を率いたのは陸軍中野学校の中尉の岩波壽(いわなみ ひさし)。

瑞慶山良光さん:
あなたがたのように髪が長くて、あの時の日本の軍隊は丸刈りでしたね。岩波たち部隊長は長い髪をしていました。村の在郷軍人とは立ち居振る舞いが違っていて、あまりものを言わない方でしたね

護郷隊の任務はゲリラ戦、米軍の進攻を遅らせるため手製の爆弾で橋を次々と爆破するなど攻撃をしかけた。しかし、米軍の記録によれば大きな損害を与えることはできなかったとされる。

宮城清助さん(2020年取材)
軍としては米軍を阻止するために橋を壊したのですが、他の避難民は橋がないために大変な思いをしているのです。軍は軍を守ることを最優先にしており、住民のことは二の次になっているのです

民間人になりすまし敵の動向を探るのも「護郷隊」の任務で、訓練は「陸軍中野学校」出身の部隊幹部らが指導にあたった。

玉里勝三さん(2016年取材):
敵の倉庫に侵入して物資を奪うための鍵開けの訓練をしたりしました

狭まる日本包囲網 相次ぐ敗北に大本営は

1944年、サイパン島やテニアン島が米軍によって陥落され絶対防衛圏を破られた日本はゲリラ戦を行うため、パプアニューギニアに第一遊撃隊、フィリピンに第二遊撃隊を編成した。30年に渡りジャングルに潜伏し続けた小野田寛郎は第二遊撃隊のフィリピン戦線に派遣された。

戦況が厳しさを増す中で第32軍を配備した沖縄が戦場となる事を想定し第三・第四遊撃隊を編成、「第一護郷里隊」「第二護郷隊」と名付けられた。沖縄本島南部で米軍を迎え撃とうと考えた沖縄守備軍(第32軍)は本島中部から進攻する米軍を挟み撃ちにしようと本島北部に護郷隊を配置した。

大本営は米軍の本土上陸までの時間を稼ぐため沖縄を”不沈空母”とし、住民を地上戦に巻き込んだ。

”死ね”という命令だった

アメリカ軍の本島上陸後、瑞慶山さんは切り込みを命じられた。それは死を避けられない任務だった。

瑞慶山良光さん:
(戦車が)走っていないとき、停まっているときに潜り込んで爆薬に点火します。導火線は1秒で1センチ燃えるので、わずかな時間しか猶予がありません。だからこの作戦では、一緒に吹き飛ぶことになるのです

作戦は直前で中止となったが、瑞慶山さんは任務中に大けがをした。

瑞慶山良光さん:
(手りゅう弾が)5メートル先に落ちて破裂し、破片が右のほおに入り込みました。歯をかみしめたら左右の歯が4本折れていました。唾液腺まで切られていましたからね

圧倒的なアメリカ軍の戦力を前に徐々に戦況は悪化、北部の山々は避難民や敗残兵で混乱に陥り「護郷隊」は1945年7月、事実上の解散となった。 しかし、少年たちが任務から解放されたわけではなかった。

瑞慶山良光さん:
米軍が日本本土に再上陸した場合は、私たちは後方からかく乱して戦わなければならないのです。これが部隊長の命令でした

すでに護郷隊の任務は郷土を守ることではなくなっていた。

第一護郷隊を率いた村上治夫は沖縄に着任した際、「第32軍」司令官の牛島満にこう述べている。

戦史「護郷隊編纂委員会編」より
「軍が玉砕した場合、私たちが最後まで頑張って敵の後方をかく乱するとともに大本営といつも無線連絡をとって情報提供します」

重傷を負った瑞慶山さんは仲間とともに故郷の大宜味村へ。掃討作戦に入った米軍を避けながら故郷に近い塩屋湾(しおやわん)まで辿り着いた時、仲間からこう告げられた。

瑞慶山良光さん:
僕は連れて行かないと言われました。やせすぎているからです。「泳いでついてきたら皆で海に突っ込んで殺してやる」と脅されました。それで僕はやめておこうと思いました

仲間に見捨てられた瑞慶山さんが自力で親元に辿り着いた時には瀕死の状態だった。壮絶な体験から戦後長らくPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しめられた。地元では護郷隊にいた事を疎まれた時期もあったという。秘匿部隊であったことから戦後の補償もなかったという。

瑞慶山良光さん:
臆病になりました。皆が自分を殺すかもしれないと思い、相手が自分を殺すかもしれないとも思いました。兄弟であろうが親であろうが、そんなことは関係ないのです

仲間を思い植えた桜

戦場で亡くなった仲間の弔いにと瑞慶山さんは自宅の裏山に桜の木を植えた。

瑞慶山良光さん:
亡くなった人たちが永遠に生きられるようにしたほうが、遺族としてもはるかに大きな喜びになると思います

およそ160人が犠牲となった護郷隊の元隊長らは戦後、部下たちの慰霊のため沖縄に通い続けたという。

元「第一護郷隊」隊長 村上治夫:
純真無垢で本当にかわいらしい兵隊さんでした。ある時は鉄砲が重いと言って泣いたこともあったし、父母が恋しくなって泣き出したこともあったのを思い出すと、本当にいじらしく感じられるのです

瑞慶山さんが植えた桜が2025年も満開を迎えた。

この日集まったのは瑞慶山さんを慕う仲間たちだ。

沖縄戦から80年。

やんばるに咲き誇るカンヒザクラは戦場に倒れた少年たちがいたことを静かに伝えている。

(沖縄テレビ)

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