お肉を囲んだ笑顔の記憶は、誰しもあるのではないでしょうか。

けれど、お肉を食べたくても身体的に食べることができなくなる日は、誰にでも訪れる可能性があります。

足腰の筋肉が衰えるように、噛む力や飲み込む力が弱まっていくのです。


■肉が食べられなくなる未来 誰にでも訪れる可能性

医者から「この先 口から食べることはできない」と告げられた女性。

肉とビールをこよなく愛していた男性。

2人は昔大好きだったお肉を食べることをあきらめていました。

厚生労働省の調査では、70歳を超えると、噛むことに困難を抱える人は3割を超えていて、食事の制限を余儀なくされています。(厚労省 国民健康・栄養調査 2017年)

大切な人に好きな食べ物をずっと楽しんでほしいと、奮闘する人たちがいます。

■脳卒中で右半身に麻痺 抜けていく歯 大好物のステーキを食べられず

京都市で暮らす井尻晃男さん(78)。

およそ20年前、ランニング中に脳の血管が破裂しました。

脳の言語をつかさどる部分が損傷し、物事を理解できていても、伝えたい言葉がうまく出てこなくなりました。

さらに体の右半身に麻痺が残り、年々、食べ物を噛む力も弱まっています。


そんな井尻さんをそばで支えているのが、言語聴覚士の高田耕平さんです。

言語聴覚士とは、「話すこと」や「食べること」に不自由を抱える人について原因を分析し、機能を回復するためのリハビリなどを行う国家資格を持つ医療のプロです。

井尻さんと高田さんは患者と言語聴覚士という関係性を超えた絆で結ばれています。

10年前には、一緒にビールを飲み、ステーキをたいらげていました。

しかし、右半身の麻痺の影響などで、歯が抜け落ち、井尻さんは、高田さんと一緒にステーキを食べることができなくなりました。


【言語聴覚士・高田耕平さん】「焼肉食べたいですよね?ステーキは?」

【井尻晃男さん】「うん」

【高田耕平さん】「ずっと食べてないですもんね。分厚いやつ(ステーキ)とかってもっと前から食べてないですからね」

「薄めの牛肉を買ってきてはったし、その辺がまた食べられたらいいなっていうのは、前から言っておられたところではあるかなと思いますね」

■「看取りしか選択肢はない」医者から告げられた女性

言語聴覚士の高田さんにはもう1人、牛肉を食べてほしい人がいます。

京都市で暮らす仲秀子さん(75)は、脳梗塞や誤嚥性肺炎を繰り返し、5年前、「この先口から食べることはできない。看取りしか選択肢はない」と医師から告げられました。

【夫・良二さん(77)】「妻が最後に倒れた時、退院して、医者から「もうこのまま胃瘻もしないよ」と言われた」


諦めきれない夫の良二さんが高田さんに相談しました。

【夫・良二さん】「妻の命の恩人というか、こうして食べることができるようになったというのは、高田さんなしでは、考えられないでしょうね」

Q.夫婦でおいしいお肉を食べた思い出はありますか?
「そうですね、焼肉屋さんですかね。たまに上等なステーキハウスに行ったこともあります」

高田さんとリハビリを続けたことで、秀子さんが食べられるものは増えていきました。

けれど、大好きだった牛肉は繊維が多く誤嚥の危険性があるため、食べることができません。

【言語聴覚士・高田耕平さん】「あきらめたくないと思っている方に、できるだけたくさんの食べるっていう選択肢をお伝えしたいですね」


■末期ガンの女性への「心残り」介護士だったお肉のプロ

お肉に携わるプロの中にも、医療のプロ、言語聴覚士の高田さんと同じ思いを持った人がいます。

京都で精肉店や焼肉店を展開する「ミートショップ ヒロ」の従業員、鈴木孝悦さん(45)は、2019年に今の会社に転職するまでおよそ10年間、介護士として施設などで働いていました。

そこで出会った末期がんの女性に対して、「心残り」があるといいます。

【鈴木孝悦さん】「末期ガンの入居者さんがいて、お肉が大好きだったんですよ、むちゃくちゃお肉が大好きで」

「どうしてもガンが進行するにつれて、食事が食べられなくなってきて、最終的にはペースト食と呼ばれるものだけ、流動食と呼ばれるものだけを食べていらっしゃったんですけれども、それ自体もどんどん飲み込めなくなってしまいまして」

「上司から『今日生きている方、明日もご存命とは限らないから。今日を全力で介護しなさい、それで後悔しないようにしなさい』って言われていたんですけれども、やっぱり食事っていうのは、介護において、僕の中で全力で出来ていない部分だったと思う」

お肉を食べることをあきらめないでほしい。

共鳴した高田さんと鈴木さんは2023年、「歯茎でつぶせるステーキ」の開発に乗り出しました。

精肉店の技術で切れ目を入れ柔らかくした牛肉を、圧力鍋を応用して作られた家電「デリソフター」で調理。

しかし、繊維が多くカットした場所によって、油のバランスも異なる牛肉を柔らかく仕上げることは至難の業で理想とする歯茎でつぶせる硬さのステーキは完成しない日々が続きました。

開発期間1年、この間、試食したステーキは100枚以上。

試行錯誤を繰り返し、ついに歯茎でつぶせる柔らかさのステーキにたどりつきました。

※【大トロステーキ(約100グラム)3000円 デリソフター調理で歯茎でも噛み切れる柔らかさ】

【ミートショップ ヒロ・鈴木孝悦さん】「今までお肉で表現として、よく舌で溶けるとかいうじゃないですか。このステーキのことですよ。フォークとナイフの時代が終わったかな。プリンみたい」

【言語聴覚士・高田耕平さん】「もともと食レポで牛肉が口の中で溶けるっていう表現って、実際には繊維が残っていたり、無意識に歯でその繊維を切りながら食べていたりするんで、溶けるって言っても、肉汁とか霜降りの部分だったりするんですけど、これはほんまに、ふわぁーってなくなる。片手お箸で切れちゃう」

完成したお肉を真っ先に食べてほしい。

高田さんと鈴木さんは、右半身の麻痺の影響などで、歯が抜け落ち、ステーキを食べることをあきらめていた井尻さんのもとに柔らかいステーキを届けました。

【高田耕平さん】「井尻さん、片手で切れるステーキですよ。噛まんくていける?」

<井尻さんうなずく>

10年前、おいしいお肉を求めて繁華街に繰り出していた2人。

高田さんは井尻さんがステーキをほおばる姿をまた見ることができました。

【高田耕平さん】「この肉、前からあったらね。僕らが好きな阪神が優勝した時、一緒に買って食べていたのにね。祝杯にはちょうど良かったかもしれないですね」


【鈴木孝悦さん】「ご夫婦で一緒にステーキを食べに行った思い出とかあると思うんですよ。それをご自宅で楽しんで頂けるんであれば、私たち食に関わる者としては、一番うれしいことかなと思います」

5年前、「口から食べることはできない」と医者から告げられた仲秀子さんの元にもステーキが届けられました。

【夫・良二さん】「妻にとっては、牛肉なんてもう何十年ぶりってなイメージでしょうね。今回食べるのは」

「あんまり表情が出なくなったんですけれども、普段食べて笑いませんけど、ステーキを食べて笑うと面白いなと思っております」


2人の思い出を再現したいと、鈴木さんは良二さんのステーキも準備しました。

【言語聴覚士・高田耕平さん】「ステーキの見た目は同じですけど、柔らかさが違うんです」

【夫・良二さん】「食べれるんやで(笑)」

ステーキを食べ始めるとしきりに皿を押す秀子さん。

【高田耕平さん】「お皿を手で押すのはリクエストです」

「嫌な時だと、口に食べ物を入れようとしたら、口を閉じるんです。『もういらない』っていう意味なんですけど、秀子さんが皿を押した後、ステーキを口元に持っていくとパカッて口を開いてずっと食べておられるんで、『ステーキをもっとちょうだい』っていう意識でおっしゃっています」


お皿をのぞき込む秀子さん。

【高田耕平さん】「めっちゃチェックされてる。めっちゃさっきから器をのぞきこまれるんです。『ステーキ入ってんねやろな』っていう」

「わかっとります。ちょっとお待ちください(笑)」

【夫・良二さん】「ふふふふふ(笑)」

良二さんが笑うと、普段食事の際に笑顔を見せないという秀子さんの表情もほころびました。


【夫・良二さん】「ほんとに信じられないですよね、妻が、自分と同じものを口にしているというのは。それはサプライズですよね」

「家族で食事ができたらということが再現できたということですよね」

「いやぁ、妻がこの状態になってからね、同じステーキをこうして目の前で食べるなんてね、想像できなかったんで、ほんとびっくりしましたよね」

「これは一番生活のレベルとしては大事なことですよね。こうして同じものを食べられるというのはね。やっぱり美味しいものを食べることは、一番の大事なところですよね。生命の維持と欲とが両立できるというのは(笑)」

「ふつう笑わないからね妻は。ほんとにめったにね。ともに嬉しく思いましたですね」

あの日の笑顔を呼び起こす。

お肉があります。

(関西テレビ記者・井上真一)

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