カップラーメンを頼む入院患者
新型コロナウイルスの指定感染症としての取り扱い見直しの議論が政府内で加速している。ようやく、というのが実感だ。分科会その他専門家の一部から意見が上がり始めたのがちょうど7月末だった。民間ではそれよりはるか前から議論として提起されている。
新型コロナウイルスが医療現場を圧迫していると言われるが、実際に新型コロナウイルス陽性者を受け入れているのは、日本全体の医療機関のうちごくわずかにすぎない。指定医療機関ではない病院は、感染を恐れる人々が病院から足が遠のいたせいもあり、逆に患者が不足して経営難に陥っているとして政府に支援を要請している。
つまり、新型コロナウイルスを診ていない病院は、需要が不足して経営難に陥っている飲食店などと原理的にはあまり変わらない状況にあるということだ。
この記事の画像(9枚)こうした、ごく一部の指定医療機関が一手に新型コロナウイルス患者の治療を担いながら、軽症や無症状の人びとがベッドを占めてしまっている。そのうえ、現在の日本は感染の広がりの実態把握と国民が求める安心感のため、検査を拡充する傾向にある。このままの勢いで、PCR検査で陽性が判明した人数が増えれば、とりわけインフルエンザ流行が始まる冬には医療資源がひっ迫することは想像に難くない。
現実問題として、新宿の病院で報告されたように、コンビニにカップラーメンを買いに行ってくれとナースに頼むようなピンシャンした患者を病室に隔離しておくために、貴重なリソースを割く必要は本当にあるのだろうか。
政府や専門家はきちんと人々を信じる必要がある。ほとんどの人は陽性が判明したら自己隔離するのであって、一部ルールを守らない人が生じても、それは人口のごくわずかにすぎない。
一部の配慮が欠けた人に対して、苛烈な制裁を科す国や地域も存在する。たとえば、台湾ではPCR陽性反応も出ていない東南アジアからの帰国者が、2週間自己隔離のルールを破りクラブに外出したとして、GPS追跡の結果連行され、360万円もの罰金が科された。
日本で仮に法制化を試みたとしても、そのような厳罰化が国民に受け入れられる風土はないし、望ましくもない。のちに述べるように、厳格なロックダウンを行う国では規制の社会的コストの方がすでに大きくなっている。
日本においては、新型コロナウイルス陽性者は仮にまったくの無症状であっても厳重な隔離が求められている。これを文字通り運用しつづければ、国民が求めるような拡大した検査を実施することはできないし、医療機関もホテルもパンクすることが目に見えている。
この致死率の低いウイルスはすでに社会の隅々にまで広がっており、隔離して撲滅できるわけでもない。初期にこのウイルスをエボラ出血熱並みの隔離対象扱いとしたこと自体が間違っていたということが分かる。
政治判断が必要な理由
この件でなぜ「政治判断」が必要なのかと言えば、そもそも不確実性がゼロではないウイルスに関して、専門家に政策の責任を負わせることは倫理的にも民主的にも正しくないからだ。医療の専門家に聞けば、医療面での知見に基づき、感染症に関わる狭義のリスクを最も排した政策を提案するだろう。
一方で、その意見を鵜呑みにすれば、ほかのところで死傷者が出たり、人々の私権が損なわれたりする可能性がある。だからこそ、政治は不確実性がある程度残っている状況下でも、保護されるべき利益の比較衡量を通じて決断すべきなのだ。
政治はどこでリーダーシップを発揮すべきか。もっとも重要なのは医療資源配分の適正化だ。そのひとつが、指定医療機関のみに負担を負わせないように適切な方針を打ち出すことであり、医療資源を拡充することである。
もうひとつが、患者の適正配分だ。日本の医療従事者はプロフェッショナルとしての意識が高く、それもあって目の前の患者に集中しがちな傾向にある。いったん引き受けたならば、とことん手立てを尽くすということだ。私自身、第一子の出産時に、母体のための集中治療室(MFICU)への引き受けをめぐって複数の医療機関に打診してようやく一つの病院に受け入れられ、手厚い治療を受けたことがあるが、そのような高度医療のキャパシティは限られている。
だからこそ、どの患者を手厚い治療の下に置き、どの患者にホテル療養に入ったり家で待機してもらうかを政府や自治体が適切に配分しなければ、目の前の軽症者の経過観察をするために、重度の症状を呈している患者が自宅待機になったり、救急車でたらいまわしになる可能性がある。政府も医療現場の声を吸い上げ、指定感染症としての取り扱いを再検討する方針をすでに示唆している。
さらに、政府がこれまでに第二波を想定して行動自粛・制限のためにおいてきた基準はもはや役に立たないことがわかった。検査対象や数が変われば、これまでのロジックがすべて変わるからだ。同時に明らかになってきたのは、このウイルスに対して私たちができる対策はマスクや手洗いなどに限られており、逆にそれさえしっかり守れれば、春の時点でも日常生活を送れたはずだったということだ。
第一波対応を検証する
日本では第二四半期のGDPが前期比7.8%減の落ち込みを見せた。コロナショックは景気悪化速度も底の深さもリーマンショックをはるかに上回る。景気がすぐに回復するのであれば、傷はこれ以上深くならないだろうが、この景気悪化の「長さ」は当初の各種エコノミスト予測をはるかに上回る見通しだ。
ロックダウンした国々は、短期的な経済損失を蒙ってでも「早く感染を終息させたい」という世論が存在した。ウイルスをゼロにすることは不可能と思われるため、実際には第二波までに医療体制を整え、時間稼ぎをすることが目的だったはずだが、感染症専門家が人びとのやる気をそぐことを恐れて長期的見通しを示すのを躊躇い、各国政府も「いまここ」に集中した努力を国民に求めた。要は、どれだけ長引く戦争であるかを国民にしっかり説明せずに、総動員体制を敷いてしまったようなものである。
その結果、シナリオは短期的には極度に悲観的で(例:放置すれば数十万人が亡くなると言う警鐘)、長期的には極度に楽観的なものとなった(例:ロックダウンに成功すれば早く回復できる)。私が以前から発信してきたように、感染症対応をめぐる人々の失敗は、戦争をめぐる人々の失敗に酷似しているのである。
日本においても、緊急事態宣言とそれに伴う休業要請は、医療崩壊を避け、医療体制を整えるための時間稼ぎが目的だった。しかし、そこにさらに日本独自の目的として、クラスター対策班が追跡できる範囲に感染者数を激減させるという狙いが加わった。つまり、毎日数十人が感染する程度であれば十分な聞き取り調査をして濃厚接触者をすべて洗い出せるだろう、という発想である。
しかし、ここには盲点が存在する。日本の検査は発熱が数日間続いた場合など、症状が中程度以上の人に限られていた。濃厚接触者を除いて無症状者は捕捉されず、市中にはクラスター対策班が追える人数をはるかに上回る感染がすでに広がっていた。だから、表向きの陽性者数が激減しても、ウイルスを追跡可能にするという目標は達成されない。検査能力が拡大し、経済活動や日常生活が再開すると、今までは検査されなかった、無症状あるいは軽症の感染が数多く見つかることになった。その典型例が新宿の歌舞伎町である。
緊急事態宣言をもう少し長引かせればよかったのではないかという意見もあるだろう。しかし、それはファクトによって否定されている。香港やニュージーランドでは厳重な長期間のロックダウンが行われ、ウイルスを撲滅したかに見えた。しかし、再び感染者が見つかり、一部ロックダウンに舞い戻っている。
こうした事態を受け、これまで称賛されていた国の政府に対しても、科学者からの異論や批判的意見が出されるようになった。例えば、ニュージーランドでは、オークランド大の研究チームが「プランB」を提唱し、ウイルスの完全排除を目指せば必ず失敗し、経済面でも衛生面でもウイルスそのものより深刻な結果をもたらすと警告している。ノルウェー公衆衛生研究所の所長も、ノルウェーはロックダウンせずにこの病気に対処できたはずだと指摘した。
時が経てばいずれ明らかになるだろうが、世界各国は、第一波対応に対する真摯な反省と振り返りを行うはめになるだろう。それができないのは中国のような透明性に乏しい独裁国家である。だからこそ、日本も比較的うまくやってきたとはいえ、これまでの対応を見直すべきところは見直し、軌道修正することを躊躇うべきではない。
【執筆:国際政治学者 三浦瑠麗】