「私の逮捕は日本社会の恥だ」。“産業スパイ”として起訴された男は法廷で、中国語で堂々とこう言った。
約2300人の研究者を抱える、日本最大級の研究機関「国立研究開発法人・産業技術総合研究所(略称:産総研)」で主任研究員だった中国籍の権恒道被告(60)が、研究内容である先端技術の情報を中国に流出させた罪で起訴された。

年間600億円以上の国費が投入されている国立の研究機関が舞台となったこの事件は、日本社会に大きな衝撃をもたらした。
日本の予算で研究し中国で特許取得
権被告が産総研に加わったのは、今から20年以上も前の2002年のこと。当初から、環境に負荷がかかりにくいとされるフッ素の研究・開発に携わっていたという。
今回の事件で中国企業に漏えいされたとされている“先端技術”とは、地球温暖化の原因になりにくいフッ素化合物の生成方法だった。世界各国が温室効果ガスの削減策を推し進める今、世界中から注目を集める技術と言える。

そんな注目の技術の情報を、権被告は大胆にも産総研のパソコンからメールで中国企業に送信した罪に問われている。さらに、情報漏えいとなったメール送信の約1週間後には、その内容を元に中国で特許が取得されていたという。事実であれば、日本の国費を使って得られた研究成果が丸ごと中国に奪われていたことになる。
名前をネット検索するだけで出てくる…習近平氏との握手写真
権被告とは、一体どのような人物なのだろうか。逮捕後、取材を進めると驚きの連続だった。
まず、権被告の名前をインターネットで検索すると、北京理工大学のホームページに「産総研の主任研究員」というプロフィールのもと、大学名を背景に写真に収まる姿が目に飛び込んできた。北京理工大学は、軍と密接な関係があるという「国防七校」のひとつとされている。この大学は、日本の経済産業省が「大量破壊兵器開発の懸念がある団体リスト」に挙げている。権被告は産総研の研究員として働いていた時期に、この大学の教授に就任していたのだ。

さらに、2018年に撮影された華僑団体のホームページには、習近平国家主席と握手を交わす写真が掲載されていた。
中国メディアの記事には「権博士は全国科学技術会議で授賞式に参加し習近平国家主席らと接見した」と説明されていて、中国政府が権被告を重要な科学者と位置づけていることが分かる。
これらの情報は、誰もがアクセスできるインターネット上に掲載されていたが、産総研は知り得なかったのだろうか。事件後、産総研は、「採用の際に事前審査をしているが、採用後については十分な調査ができていなかった」とコメントしている。
身振り手振りで無罪訴え「逮捕は日本社会の恥」
初公判で法廷に立ったスーツ姿の権被告。逮捕時に比べると痩せていて疲れたような顔つきながらも、起訴内容について問われると、「書面を読み上げたい」と紙を握りしめ、「先端技術の情報をメールで送ったのは自分ではない」と自らが無罪であることを堂々と主張した。
そして、時折身振り手振りを交えてこう訴えた。「私は産総研に対して、国際社会に対して重要な貢献をした科学者だ。起訴されたことは、私の人権への重大な侮辱であり、日本社会の恥だ」。弁護側も「メールを送ったのは同僚」として、全面的に争う姿勢を見せた。
現行では取締りにハードル…“スパイ天国”日本
警視庁公安部は近年、企業などに対して、情報流出の具体例や対策を伝える活動、いわゆるアウトリーチに力を入れてきた。その結果、企業側からの相談件数は増加傾向にあるという。
一方で、企業にとって、被害を訴えることは、自社の情報管理体制を問われることと表裏一体であり、警察への相談のハードルは高い。

いずれにしても、現行の法律で“スパイ”を取り締まることは非常に難しく、事件化しているものは氷山の一角に過ぎない。ある捜査関係者も「日本は、スパイ防止法がある諸外国に比べ不正が明らかになりにくい」と現状を嘆く。
外国人の審査は採用する企業側に任されていて、審査にかかるコストなどがネックとなり、対策が十分なされているとは言いがたいのが現状だ。そこで、政府は、重要な情報に接する人の信頼性を前もって確認する「セキュリティクリアランス」制度の創設を目指している。制度の導入とともに、一人ひとりが身近な違和感を共有できる意識づくりを進めていく必要がある。
【執筆:社会部 警視庁クラブサブキャップ 松木麻】