「金日成主席、暗殺」突然の情報に世界が混乱
「金日成、74歳で死亡と伝えられる」
1986年11月17日のニューヨーク・タイムズ紙の一面に、こうした見出しの記事が掲載された。
記事は、非武装地帯沿いに北朝鮮が設置しているラウドスピーカーが「金日成主席が射殺された」と告げるのを韓国側が聞いたというものだった。これについて、北京やニューデリーの北朝鮮大使館は「事実無根」と否定したが、米国防総省では16日にこの情報を得ていたとも記事は伝えていた。
UPI通信はさらに詳しく、金日成主席は10月に軍部の反乱分子によって攻撃されて重傷を負っていたもので、反乱分子の多くは中国へ逃亡し、北朝鮮政府が引き渡しを求めているという見方を伝えた。

ところがその翌日の18日、ニューヨーク・タイムズ紙の一面に載った記事の見出しはこうだった。
「金日成が賓客を迎えたと北朝鮮が発表」
記事は、金日成主席は平壌空港に到着したモンゴルの使節団を暖かく迎え、儀仗兵の閲兵にも同列したというもので、「北朝鮮の発表は中国の通信社でも配信され、金日成主席が暗殺されたという噂を打ち消す意図があったものと考えられる」と付記されていた。
言ってみれば態のいい訂正記事だったわけだが、ニューヨーク・タイムズ紙に限らず世界中のマスコミがこの情報にかき回されたものだった。
偽情報は北朝鮮の策略によるもの?
今式に言えば、このフェイクニュースがなぜ広まったかということだが、北朝鮮のラウドスピーカーがこの情報を流したのは間違いないようなので、北朝鮮指導部が意図的に対内的あるいは対外的にかく乱を目的に戦略的に流したディスインフォーメーション(偽情報)ではなかったかとみられた。
まず国内に対してだが、当時、金日成主席の後継者として金正日氏の名前が浮上してきていたが、指導者を世襲で選ぶことには北朝鮮内部に抵抗があったと言われていた。そこで、金日成主席が死亡したという情報を流して、抵抗派をあぶり出すことを狙ったのではないかと考えられた。

対外謀略説としては、金日成主席がクーデターまがいの反乱分子の攻撃で死亡したことに韓国軍や在韓米軍がどのような行動を起こすのか、また、中国や当時のソ連がどう反応するかを見極めるものだったという説もある。
いずれにせよ、金日成主席はその後8年間は北朝鮮を支配し続けることになるわけで、以来、北朝鮮指導者の安否情報は北朝鮮政府の公式発表があるまでは断定的に伝えない方が無難だというのが、コリアウオッチャーの定説になった。
錯綜する「金正恩重体説」の真相は…
そこで、今回の金正恩委員長の重体説だが、確かなのは同委員長が4月15日の祖父の命日である「太陽節」の記念行事以降、顔を見せていないことだけだ。

「心血管疾患の手術を受けた」「中国から医療団が派遣された」などの情報が乱れ飛んでいるが、噂に近い話だ。

また、金正恩委員長の別荘のある元山の駅に、特別列車らしい車両が停車している25日の最新の衛星写真が米国の民間の研究機関から発表されたが、北朝鮮は衛星で監視されていることは百も承知のはずなので、あまり当てにはならない。

言えることは、北朝鮮でも新型コロナウイルスの感染が深刻になっていないわけはないはずなので、金正恩委員長の消息にも関連があるかもしれないということぐらいだ。やはり、ここは34年前のニューヨーク・タイムズ紙の先走りを教訓に憶測を避けた方が良いだろう。
【執筆:ジャーナリスト 木村太郎】
【表紙デザイン:さいとうひさし】