ドラマ「北の国から」の脚本家・倉本聰さんが、9月18日に多臓器不全のため北海道富良野市の自宅で亡くなりました。91歳でした。
「ひとつの時代が終わってしまったのかな」
「北海道にとっては残念だと思う」(いずれも北海道民)
1935年東京生まれの倉本さんは、1977年、42歳の時に富良野市に移住しました。
1981年から始まったドラマ「北の国から」は一大ブームとなりました。
田中邦衛さん演じる黒板五郎と息子の純、娘の蛍が東京から富良野市に移り住み、厳しい自然の中で成長する姿を描いた名作です。
「生きることと暮らすことが、そもそもどういうことなのか。文明の進んだ時代の中で改めて問いただしたかった。都会育ちの今の子どもたちを主役にして、彼らを自然の中に入れた時にどういう反応を見せるか、その化学反応が知りたかった」(脚本家 倉本 聰さん 当時90歳)
ドラマはその後シリーズ化され、2002年まで放送されました。
数々の名シーンが見る人の心をつかみました。
「人間の成長を見ているとすごくおもしろいものだと強烈に感じ、『もう少し追いたい』と言っているうちに、こんなに長くなってしまった。東京でドラマを書いていた時には目線が高かったという気がした。自分がものを見たり、書いたりする目線が。もっと下の方に目線を低くして、地べたすれすれの目線で書いてみたい。それが一番強かった」(倉本 聰さん 当時67歳)
その後、富良野市を舞台にしたドラマ「優しい時間」(2005年)や「風のガーデン」(2008年)を世に送り出し、“富良野3部作”と呼ばれました。
ドラマのロケ地は多くのファンが訪れる観光名所となっています。
1984年には「富良野塾」を開設し、26年にわたって主宰。
若手俳優や脚本家の養成に勤めました。
「みんな自分たちで建てた稽古場。今まで散々苦労しているから、柱1本から床板1枚まで、くぎを打った場所や磨いた場所にみんな愛着を持っている。練習していても勢いが違う」(倉本 聰さん 当時53歳)
「この映像に歌詞はいらない」―。
「北の国から」のさまざまなシーンで、人々の思いを代弁するかのような印象的な主題歌を作り上げたシンガーソングライターのさだまさしさん。
「『北の国から』のビデオを一回目、二回目見たあとで、『今作れ』って言われた瞬間が一番怖かったですね。今かよって。『何でもいいから声出せよ』って言われて。『え、なんでもいいの』と思って『あーあー』とか言ったら、『出るじゃないか声』『もう一回もう一回』『それいいじゃないか』と言われた。今思えば楽しい一日でしたね」(シンガーソングライター さだまさしさん)
「北の国から」は、富良野市の知名度を全国区に引き上げました。
「富良野にとって大きな影響力を持った方ですからね。その方が亡くなったというのは喪失感が大きい」(富良野市民)
「驚きやね。田中邦衛さんも亡くなったけど、まだ純君は元気だから続きを見たかった」(大阪から)
「まず富良野を知らなかったけどドラマを通じて知った。もう1回見返して楽しみたいと思います」(神奈川県から)
「多い時は1週間に3回くらい来店するので、私も同じものを出せない。だんだんメニューが増えていった。倉本さんには感謝以外の気持ちはありません」(くまげら店主 森本毅さん)
在りし日の倉本さんと交流があった北猛俊富良野市長は、感謝の思いを語りました。
「町が変わったぐらいの功績がありますよね。とりわけ大きくクローズアップされたのがラベンダーということで、観光もあの時点から夏の観光に切り替わってきた。大変ありがたいことだというふうに思ってます」(富良野市 北猛俊市長)
テレビドラマや映画、演劇などで、北海道の大自然を舞台に人々の生き様を描き続けた倉本さん。
倉本さんが残したものは、北海道の人々の心に深く刻まれています。
「自然というのは人間が過度に住んじゃうと、どうしても汚していくんですよね。今の地球温暖化がそうでしょ。あまり変わってほしくないというのが一番ですよね」(倉本聰さん)
