8月6日、広島は81回目の「原爆の日」を迎え黙とうと平和への誓いがささげられた。

あの日、原爆の“きのこ雲”の下に、どんな惨状が広がっていたのかー

それを知る、爆心地から半径500m以内で生き延びた人はわずか78人。

この「近距離被爆者」の中で、いまも存命なのは友田典弘(ともだ・つねひろ)さん、ただ1人となった。

■「ピカって光ったと思ったらすぐ真っ暗なって」 最後の「近距離被爆者」友田さんの記憶

いまは大阪で暮らす友田さん。

生まれは広島で、被爆当時9歳。
母・タツヨさん、2歳下の弟・幸生くん(ゆきお)との3人家族だった。

1945年8月6日、友田さんは通っていた学校にいった。
当時の状況を教えてくれた。

友田さん:はじめ、学校行ったでしょ。地下入って行って。(靴を)かたっぽ脱ごうかと思ってたときに、ピカって光ったと思ったらすぐ真っ暗なって、飛ばされてん。

友田さんは爆心地の近くにあった袋町国民学校(ふくろまちこくみんがっこう)で被ばく。
その瞬間、周辺の地表の温度は、3000度から4000度に達していた。

学校を含む爆心から半径500m以内にいた人のほとんどが一瞬にして焼かれそのまま亡くなった。

9歳で被爆 学校の地下室にいて生き延びる
9歳で被爆 学校の地下室にいて生き延びる
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■偶然、学校の地下室にいて生存 階段をあがってすぐに見つけた弟

たまたま地下室にいて生き延びた友田さん。
階段を上がって、目にした光景を忘れることはできない。

友田さん:ぎょうさん(多くの)真っ黒の人。遺体いっぱい。

その多くの遺体の中に、弟・幸生くんもいた。

友田さん:(地下から)出てすぐ見つけた。階段上がった瞬間、おった。俺を呼びに来ようと思って来たんちゃうかな。

真っ黒になって死んどったけどね。(靴に)「トモダ」って書いててそれでわかったんよ。

自宅は爆心地に近い原爆ドームのすぐそばにあった。
母親のタツヨさんが洋服店を営んでいて、「大きい家だった」という。
どんなお母さんだったかを聞くと、友田さんは笑顔で「優しい」と答える。

学校から、なんとか自宅に戻ったが、跡形もなく焼けていて、タツヨさんの遺体は今も見つかっていない。

友田さん:探したけどいないから、お母さんは川で亡くなったと思うよ。においはするし、人間の遺体がいっぱいあったから。

階段を上がると弟の遺体 母親は見つからず
階段を上がると弟の遺体 母親は見つからず

■大量の放射線浴び染色体に異常 胃がん経験も「ほかにもがんができる可能性ある」

「近距離被爆者」の健康調査に取り組んでいる広島大学名誉教授の鎌田七男(かまだ・ななお)医師。

友田さんを50年以上診てきた。

友田さんは、爆心地近くで大量の放射線を浴びたため、染色体の一部が欠けるなどの異常を抱えている。

これが原因とみられるがんで、胃を半分摘出した。

鎌田医師は「放射線を大量に受けているわけで、どこっていうことは言えないけど、胃以外にも癌ができるっていう可能性はある」と話す。

81年たった今も、原爆に苦しめられているのだ。

81年たった今も原爆に苦しめられる
81年たった今も原爆に苦しめられる

■体に刻まれたもう一つの“戦争の歴史” 朝鮮半島での経験

友田さんの体に刻まれた戦争の記憶はほかにもある。
短くなった右足の指。凍傷の影響だという。

実は友田さんは被爆から1カ月後、朝鮮半島に渡ることになる。
孤児になった友田さんを見かねた知人の朝鮮人男性が、一緒に故郷に連れて行ってくれたのだ。

しかし、現地では、反日感情を抱く男性の親族にいじめられ、再び孤児に。

厳しい寒さを耐え、路上での生活が続いたのだ。

そんななか、1950年、朝鮮戦争が勃発。友田さんが、14歳の時だった。

友田さん:韓国、戦争すごかったよ。目の前でやってた、撃ち合いね。若い子が拳銃でバババっと撃ち殺そうとしていた。

朝鮮戦争も“経験”
朝鮮戦争も“経験”

■24歳で日本に帰国 居住地を大阪にした理由 「広島に住みたいとは思っていたけど…」

命からがら、日本への帰国を果たしたのは24歳の時。
広島には戻らず、在日コリアンが多い大阪で暮らすことを選んだ。

日本語が話せなくなっていたことも理由のひとつだったが、何より、原爆の凄惨な光景を思い出したくなかったからだ。

友田さん:(広島に)住みたいとは思ったけど、昔見てるから。川も家から近いし 思い出すとつらいからね。

あの日の記憶から大阪に
あの日の記憶から大阪に

■覚悟を決めて訪れた母校 当時のまま資料館になっていた“地下”

去年11月、友田さんは覚悟を決めて、広島のある場所を訪れた。

それは、81年前と同じ場所に再建された母校。あの日被ばくした場所だ。

友田さんがいた地下室は、一部が当時のまま資料館になっていた。

「お帰りなさい」と友田さんを迎えた子どもたち。
あの日の自分と弟の年に近い子供たちに81年前の忘れられない記憶を伝える。

友田さん:雲が固まりでどーっと、三段階で上がっていったんよ。

「先生や生徒、もう真っ黒なって亡くなったからね。」

再建された”母校”の地下は一部があの日のまま資料館に
再建された”母校”の地下は一部があの日のまま資料館に

■子供たちに伝えた弟の姿 最後の「近距離被爆者」の願い

そして、最愛の弟についても伝える。

友田さん:弟は、階段を上がったところで、弟は死んどるからね

弟は歯が白かった。足を見たら「トモダ」って書いてあったからね。もうちょっと早かったらね、『ごめんね、ごめんね』言うて。

・・・弟を思い出してな。

涙をこらえることはできませんでした。

その話を静かに聞いていた児童は「友田さんが過去を思い出して泣くぐらい辛い悲しい思いを、もう誰にもして欲しくないので、この思いを受け継いで、未来に発信していきたいです」と話す。

児童たちの言葉を聞いて、友田さんは「頑張ってくださいね」と静かに応えた。

「誰にも同じ経験をしてほしくない」。

近距離被爆した最後の生存者の願いだ。

あの日の自分と同年代の子供たちに記憶を伝える
あの日の自分と同年代の子供たちに記憶を伝える
関西テレビ
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