乗客106人と運転士が亡くなった、福知山線脱線事故からまもなく20年。
当時中学2年生で、母を奪われた男性が 記憶を語り始めた。今、事故と向き合う本音とは。

■やんちゃな息子たちを温かく見守っていた母
宝塚市に住む、尾形麗さん(33)。月に一度のお墓参りを欠かさない。
尾形麗さん:(供えるのは)おかん好きやったのと、おじいちゃん、おばあちゃんも入ってるんで、みんなが好きな飲み物を毎回。
ここに眠る母・和賀子さんと過ごしていた時間は、あの日突然、奪われた。
学校から帰ると、いつも出迎えてくれた母。やんちゃな息子たちの成長を温かく見守っていた。
尾形麗さん:家から僕らが通っていた小学校とか見えていたんですけど、グラウンドで遊ぶじゃないですか、休み時間。それをずっと見ていたっていうのは聞いたことあります。登下校中もマンションの上でいつも手振ってくれていました。

2005年4月25日に発生した「JR福知山線脱線事故」。死亡したのは乗客106人と運転士の合計107人、重軽傷者は562人。
スピードを出しすぎた快速電車がカーブを曲がり切れず脱線し、先頭車両はマンションの駐車場に入り込み大破するほどの大惨事となった。
尾形さんの母・和賀子さんは、習い事のため、たまたまこの電車に乗り合わせ犠牲になった。

■運転席を見たがる息子のため1両目に乗るのが習慣だった母
尾形麗さん:(事故)直後は、1週間ぐらい学校は休んで、家族と一緒に過ごしていたのは覚えています。だけど空白ですよね。ちょっとショック過ぎて。
尾形麗さん:正直何をしても何を言っても、どんな努力をしたとしても、帰ってくることもない。一言でいえば受け入れざるを得ない。

和賀子さんは、運転席を見たがる息子たちのために、1両目に乗るのが習慣だった。
尾形さんは今も1両目に乗っている。
尾形麗さん:乗るのは1番前、あえてですけど。(母が)普段乗っているのが1両目やったんで、それを感じたいためかもしれないです。
あれから20年たち、大人になった今も、事故の詳しい状況を、父には聞けていない。
尾形麗さん:真実とか事実とか知ってしまうと怖いなというのがあって、まだ聞けてない自分がいるかもしれないですね。

■「風化は止めないといけない」20年たち事故と向き合い始める
それでも最近、ようやく母への思いを語れるようになった。
尾形麗さん:昔は、自分の代わりに話してくれている人達がたくさんいてたっていうのもあって。事故とか社会とかに目を向けられていなかった。自分が出るっていうのはちょっと違うなって。まだ話ができる段階ではなかったのかなと思います。
尾形さんの背中を押すのは、“風化”への危機感だ。去年5月に娘を授かり、親として気付いたこともあった。
尾形麗さん:母親が、子供と家族と離れるっていうのは、恐らく、残される側もですけど、去る側の方がしんどかったんちゃうかなっていうのは、今は分かりますね。
尾形麗さん:別に話さなくてもいいっていう選択はあって、だけど自分の中で風化を感じてしまう、どうしても。それだけはやっぱり止めないといけない。
ふたをしてきた気持ちに向き合い始めた20年目。社会が忘れかけようとも、遺族の思いは変わることはない。

■事故から間もなく20年
事故から間もなく20年。尾形さんも語った「風化」を意識せざるを得ないほど、長い時間が過ぎた。
共同通信社編集委員 太田昌克さん:尾形さんのお話の中で、『去る側の方がしんどかったんじゃないかな』という話がありました。こんなに不条理な事故に巻き込まれて亡くなった人たち、この死者の無念さですよね。20年たって、そこに思いがいたった。娘さんの誕生もあって。

共同通信社編集委員 太田昌克さん:だから亡くなった方の無念さを晴らすため、そして生きていた魂の生きた証を紡ぐんだという意識で、再発防止へ向けて証言をされている。それが風化に抗して、こういう尾形さんの勇気に現れていると思うんです。
尾形さんのように、つらい思い出にふたをされている方がいらっしゃるということも忘れてはいけない。
関西テレビ 加藤さゆり報道デスク:20年たってこうやってお話できるようになられた方もいれば、まだお話しできない方もいらっしゃると思います。本当に人それぞれいろんなポイントがあるんだろうなということも、私たちは思っていかないといけないのだと思います。
(関西テレビ「newsランナー」 2025年4月21日放送)
