岩手県北上市にある「相去町」について、この地域は岩手県の歴史の中でで特別な位置にあったと言われているが、どのような地域だったのか。

広大な面積をもつ岩手県は江戸時代、県の北部を南部藩、県の南部を伊達藩が治めていた。

現在の駒ヶ岳山頂から釜石市唐丹湾にかけて約130kmの区間が、かつて藩と藩の境だった。

藩境では、人や物資の通行が厳しく管理されており、特に奥州街道における藩の境目の地域は重視されていた。その地域というのが現在の「相去町」だ。

こうした境目には土を盛って作る「境塚」というものが置かれていたが、一体何のために置かれていたのか、地域文化学研究所の千葉周秋さんは次のように語る。

地域文化学研究所 千葉周秋さん
「(『境塚』は)江戸時代に南部藩と伊達藩の境を決める、その場所に作られたもので、国境ラインの目印となった」

境目を示すために作られた「境塚」が相去町地域にたくさん造られた。
そして現在でも、それらの場所には塚があったことを示す標柱が立てられている。

「相去町」という地名の由来となった、この藩境にまつわる伝説が「牛と午(うま)」の伝説である。

伊達藩と南部藩の領土の境界を決めるべく、伊達藩から「夜明けに城を出発し、出会った地点を藩境とする」といった内容の書状が届いた。

両者が出会うと南部藩は驚いた。
南部藩が牛で来たのに対し、伊達藩は馬でやって来た。
書状には「牛」と書いてあったのではないかと南部藩は問い詰めたが、伊達藩は十二支の「午(うま)」と書いたのだと否定した。

移動の遅い牛に乗った南部藩は大きく遅れ、不利な地点で落ち合うことになる。
こうして両者が「合って去った」ことから、この地を相去と呼ぶようになったという伝説がある。

藩境となった相去町地域では、さらに面白い地名の由来があるという。

地域文化学研究所 千葉周秋さん
「北上沿いの新しい道路に作られた町が通称『百人町』。それは百人の足軽を配置して作った」
「もう一つ慶長9年以前の古い道路があり、そこにも町を作った。それは足軽三十人を配置して『三十人町』という風にいわれる。二つの町の面白いところは『三十人町』は東西に長い町で『百人町』は南北に長い町」

配置した足軽の数によって名付けられた「百人町」と「三十人町」。
「三十人町」は現在も地名として残っている。
相去町は、伝説からも藩境にある地域ならではの地名と考えられそうだ。

らに地形的な視点からもう一つ「相去町」の由来として考えられる説がある。

長年にわたり県内各地の地名について調査し、著書も手掛けている奥州市出身の宍戸敦さんは次のように話している。

宍戸敦さん
「相去という由来は、北上川と和賀川が一度合流して、そこから南の方に流れていく、去っていくその状態が『相去』と考えます」

男山展望台から和賀川と北上川が合流する場所が見えるが、確かに二つの川が「あって」南の方に「去って」いる。

宍戸敦さん
「もう一つ、一関に駅の東側のところに相去という場所があるが、そこも吸川と澤川が合流して北の方に流れている。最終的には磐井川の方に流れていくが、やはり状況として同じことを考えると(相去という由来は)このような説が最も妥当ではないかなと考える」

相去町の地名の由来となったと考えられる二つの説が今でもこのように感じることができるのは、地域の特徴をうまく表わす地名の力である。

どちらの由来も合流する様子からきている相去町は、現在でも人々が集い、活気あふれる地域だ。

岩手めんこいテレビ
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