東日本大震災による津波で、甚大な被害を受けた宮城県名取市・閖上地区。
この漁港の街で震災前、地域の人に愛され続けていた「たこ焼き」があった。その名も「閖上たこやき」。生みの親の女性が津波の犠牲となり、その味は一度途絶えてしまったが、「思い出の味を残したい」とレシピを引継ぎ、キッチンカーで地域を回りながら販売している男性がいる。
特徴はソースに「漬ける」こと 愛されたソウルフード“閖上たこやき”
記者: 決め手はやっぱりソースですか?
佐々木裕也さん: そうっす(ソース)ね。ふふ。ごめんなさい。ここはカットで!

記者の質問に冗談交じりに答えたのは、名取市に住む佐々木裕也さん(43)。
「閖上たこやき」と書かれたキッチンカーで、週6日、地域を回る。
佐々木さんが作る「閖上たこやき」最大の特徴はたっぷりのソースに「漬ける」こと。
大阪名物の串カツのように、焼き上げたたこ焼きをソースにくぐらせていく。
甘辛いソースに浸されたもちもちの生地は、まさに絶品だ。

生みの親は佐々木さんの親戚の橋浦きよさん。橋浦さんが閖上に店を構えたのは昭和40年代。地域に根付き、親しまれ、愛され続けた、まさにソウルフードだった。

佐々木裕也さん:
橋浦のばあちゃんの店があったのは、そのあたりだと思うんですよね。助かってくれればよかったのですが…

12年前の3月11日、東日本大震災の津波で754人が犠牲になった閖上地区。
橋浦さん(当時92歳)は、避難の途中に津波にのまれて帰らぬ人となった。
津波は、閖上の日常を、思い出を、かけがえのない多くのものを奪った。
佐々木さんに「閖上たこやき」の思い出を聞いてみると次のように話してくれた。

佐々木裕也さん:
買ってきたたこ焼きが冷めないように、家族の誰かが掘りごたつの中に入れていたんです。寒いと思ってこたつに入った時に、足に何か当たったと思ってみてみたら「あ、たこ焼きだ!」と。すぐに食べました。家族の分は残さず全部自分で…。
橋浦さんのたこ焼きが大好きだったと話す佐々木さん。
脳裏に残る甘辛いソースの記憶は、震災前の閖上での楽しい思い出を呼び起こすと言う。
“ばあちゃんのたこ焼き”再現目指すも 試行錯誤の日々
佐々木さんは、震災の翌年、「閖上たこやき」を復活させることを決意した。地元で開かれたイベントに出店して販売を始めるところからスタートしたが、閖上たこやきの「味の決め手」のソースの味が再現できず、試行錯誤を繰り返す毎日だったと当時を振り返る。

佐々木裕也さん:
橋浦ばあちゃんのたこ焼きは、甘辛いソースが特徴で、酸味、甘さ、辛さ、全部が入っていた。食べたあとにちょっとツンと来る感じだった。使っている材料は調味料含めて全部わかっているんですけど、分量だけがわからなくて…。
2020年には働いていた建設会社をやめ、キッチンカーでの販売に専念することを決意した佐々木さん。橋浦さんの遺族にその決意を伝えたところ、あることを言われたと言う。
佐々木裕也さん:
仕事としてちゃんとやるんだったら、ソースのレシピを教えてあげると言われたんです。使っていいからと言われて…。レシピ通りに作ったソースに自分の焼いたたこ焼きを入れて食べてみた時に、「あ、この味だ」と。
ようやくたどり着いた「橋浦のばあちゃん」秘伝のソース。
さらさらとして甘辛く、焼き上げたたこ焼きをくぐらせて口に運ぶと、「思い出の味」が鮮明によみがえった。約10年の歳月を経て、自分が思い描く「閖上たこやき」が再現できた瞬間だった。
橋浦さんのたこ焼きを10代から食べていたという常連客の男性も、たこ焼きをほおばりながら「おばあちゃんの味だ」と太鼓判を押した。
佐々木裕也さん:
橋浦のばあちゃんは、まだまだだと言っていると思います。自分のたこ焼きを食べてもらって、感想や文句なり言ってもらいたかったな…
およそ10年の月日をかけて完成した、震災前から伝わる閖上の味。
佐々木さんのキッチンカーはきょうも閖上を走り、地域の住民に「思い出のたこ焼き」を届ける。「橋浦のばあちゃん」のためー、おいしいと言ってくれる人のために。
(仙台放送)