11月10日、26年の現役生活に幕を下ろす引退会見に臨んだ中村俊輔(44)。

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サッカーは「生きがい。それに尽きる」

「生きがいですね。すべてですね。それに尽きると思います!」
会見で「中村自身にとってサッカーとはどういうものか?」と問われ即座にそう答えた。

「S-PARK」は引退会見直後の中村に独占インタビュー。光と影に彩られた26年のサッカー人生。希代のファンタジスタに“ある一つの問い”をぶつけると、その答えには人生を強く生き抜くためのヒントがあった。

――この26年というのは、ご自身としてはあっという間だったのか?長かったのか?
「早かったというか…。色々な事を思い返したり、自分のプレーを見直したりして『こういう時はああだったな』という時間ができてくると、やっぱり長かったと感じるかもしれないですね」
 

中村は1997年に横浜マリノスでプロのキャリアをスタートすると、魔法のような左足を武器に一気にスターダムを駆け上がった。

日出ずる国のレフティはやがて海を渡ると、世界的メガクラブのマンチェスター・ユナイテッドを相手に2本のゴール。この伝説的フリーキックは今でも語り草となっている。

「日本代表のために全部動いていた」

国内外合わせシーズンMVPに輝くこと3回。そんな男がひときわ力を注いだのが――。
「日本代表のために全部動いていた。日本の代表としてプレーできるっていう感覚は最高の場所ですよ」
 

日本代表でも国際Aマッチ98試合出場で24ゴール。背番号10を背負い司令塔として活躍した。

だが、その一方で2002年日韓W杯は直前で代表落ち。主力として出場した4年後のドイツW杯では、1ゴールをあげるも日本はグループステージ敗退。

「ドイツの時は『俺がやってやる』って感じでしたけど、2敗1分けで終わってしまったので完全に自分の責任。10番ってそういう中心選手だったり、柱の選手がつけるじゃないですか。僕は責任を背負うのが好きだった」
 

あの日、あの一試合に戻れるとしたら?

さらに2度目の出場となった2010年の南アフリカW杯では出場時間わずか26分に終わり、思い描くプレーはできなかった。酸いも甘いも知り尽くした“希代のファンタジスタ”。そんな男にピッチを去った今、ある質問をぶつけた。

――もし、あの日、あの一試合に戻れるとしたらどの試合に戻りたい?
「そうですね。うーん難しいけど、2013年のマリノスの時に残り2試合残してホームで勝てば優勝だったんですけど、そこで負けてしまった。その後も(川崎)フロンターレにアウエーで負けて優勝を逃してしまった」
 

それはJリーグ史上初となる2度目の年間MVPを獲得した2013年のこと。黄金のトロフィーに潜んだ、決して忘れることのない“悲劇のエピローグ”。

この年、中村がキャプテンとして牽引する横浜F・マリノスは2試合を残し首位を快走する。11月30日J1第33節、ホームでのアルビレックス新潟戦は、勝てば9年ぶりの優勝が決まる大一番だった。

詰め掛けたサポーターは当時、観客動員数Jリーグ最多の62,632人。だが、極度のプレッシャーがマリノスイレブンに襲い掛かる。一度狂った歯車は簡単には戻らず、結局この試合を落とした横浜F・マリノス。

12月7日に行われたフロンターレとの最終節にも敗れ、優勝を逃した。
「試合に関してもちろん悔いはないんですけど、それまでの一週間がすごくチームの雰囲気が硬くなっているというか。キャプテンとして、あれをほぐしてパワーに変えられなかったかなっていう…」

「ああやって負けてしまうと『なにかしらできたのかな』という経験はできたので、トータルで言えば力がなかったということで、それを経験して次に生かせる材料にはなりました。その繰り返しです」

――その試合の90分も大切だけど、そこまでどう準備していくかが大切だと?
「いい事、言いますね。本当にそうです笑」

「その週だけじゃなくて一年間を通して色々な場面を想定するとかという事ですね。(大切なのは)それが積み上がっているかどうか」

「悔しいまま練習。その方がパワーがでる」

そんな苦しい経験を重ねる中、気持ちを保つ上で生命線となっていたのが――。
「うまくなりたいという気持ちだけです」

「サッカーが好きというのがあるので、ミスしたらその日で切り替えはできない。逆にそのまま持ったまま、次の日とかその先の練習をします。切り替えたら消えちゃう感じがするので、その悔しいまま、そのまま練習します。その方が自分はパワーがでるし、それを繰り返していると、どんどんどんどん(そのパワーが)自分の中ででかくなっていくんです」
 

“悔しさ”を消さない。それこそが中村俊輔を作り出す“原動力”。
「きつい事の方が多いので、(セリエAで)プレーしたらイタリアの新聞は次の日、こんなに一人の欄があるのに、みんな(色々と評価が)書いてあるのに、俺だけ『幽霊』とか書いてあったり、いたかいなかったか分からなかった僕はそういう時(10点満点で)5がつく。デカイ新聞にデカデカと『5点:幽霊』と…」

「ズタズタにされますよね。悔しいというか、見返してやりたいというか。次はこういう風にならないようにしなきゃという気持ち。それもずっと繰り返し」
 

影があるからこそ、放つ光はより一層の輝きを見せる。まさにそんなサッカー人生だった。

引退後は指導者の道に。

引退後は指導者の道に進むという中村。その前に、まもなく開幕するサッカーW杯カタール大会の解説も務める。数多くの試合を“コントロール”してきた唯一無二のレフティがどのような解説をするのかが注目される。中村俊輔は経験という財産をひっさげ、はたしてどんな未来を切り開くのか。

――ご自身の中では今、未来のビジョンはどれほどまで描けている?
「本当に未知の世界なので…。自分がそうだったんですけど、どん底の時に希望の光がパッと広がった経験であるので、(選手と接した時に)そういう事ができる監督や指導者というか、“人間性を持っていたい”というのがありますね」