「もしかしたら今日(の試合)が最後になるかもしれない」

一年中世界を転戦している車いすテニス界のレジェンド・国枝慎吾(38)。

地元・千葉県柏市にいる貴重なタイミングで、インタビュー取材の時間をもらったのは4月上旬。

コート外ではいつも柔和な表情で、ソフトな語り口調の国枝が、こんな衝撃的な言葉を発するのは、意外だった。

インタビューに応じてくれた国枝慎吾
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1月の全豪オープンテニスでは、王者の貫禄を見せ、2022年も順調なスタートを切ったかに見えた。しかし、その裏で国枝は、引退と隣り合わせの中、試合を戦っていたのだ。

国枝はこれまで、4大大会(全豪・全仏・全英・全米)で、シングルス通算26回の優勝。パラリンピックでもシングルスで3個の金メダル(北京・ロンドン・東京)と、輝かしい実績を残してきた。

去年の東京パラリンピック以降、全米オープン、全豪オープンと主要大会も全て優勝した、押しも押されもせぬ世界王者。

そんな彼はなぜ、引退を考えながら戦っていたのだろうか?

東京パラの金メダルで襲った「燃え尽き症候群」

去年の東京パラリンピック。国枝にとって、東京パラリンピックでの金メダルは「自分自身のキャリアが全て詰まった大会だった」と語るほど、特別な大会だった。

「今回の東京パラリンピックだけは、(金メダルを取った後)かなり余韻に浸ってしまいました」

練習をする国枝

国枝は「余韻」という言葉を使い、大会後の心境を振り返った。それがどんな「余韻」だったのか?改めて聞くと、国枝はこう続けた。

「余韻に浸ることで幸福感とかももちろんありましたけど、同時に燃え尽き感も混在していて、モチベーションの低下というのはかなり感じました。(東京の後)自分自身も燃え上がるものが見つからないという日々を3カ月、4カ月くらい過ごしていたんですけど」

いわゆる“燃え尽き症候群”に陥ったという国枝。

モチベーションが上がらない日々を過ごす中、いつしか「引退」の二文字も頭をよぎるようになったという。それでも時間が経てば、次の試合がやってくる。全豪オープンが始まり、勝利を積み重ねても、その気持ちは拭えなかった。

引退危機を救った「三つの呪文」

そんな国枝を救ったのが、ある「呪文」である。

「俺は最強だ!(I‘m the strongest!)」

この言葉を2006年から自分に言い聞かせてきた。

試合中に叫ぶ「オレは最強だ」はラケットに書かれていた

ラケットには今でも「オレは最強だ」というシールが貼られていて、試合中も常にその言葉を叫び、自分を奮い立たせてきた。

これはメンタルトレーナーのアン・クイン氏に教えられた言葉である。

そして、去年の東京パラリンピックから、アン・クイン氏の提案で、新たに二つの「呪文」が加わった。

「俺は何をすべきか知っている!(I know what to do!)」
「俺はできるんだ!(I can do it!)」

「この三つを呪文のように唱えていたのが東京大会でしたね。ワンプレーごとにもそうですし、ショットを打ちながら言ったくらい」

“三つの呪文”を提案したアン・クイン氏と国枝慎吾

自国開催でプレッシャーに押しつぶされそうになったという国枝。三つの呪文により、精神的に開き直れたことが、金メダルへとつながった。この経験が、このあとの国枝に大きな影響を及ぼすこととなる。

引退と背中合わせの、1月の全豪オープンだったが、決勝に進出すると国枝は「ゾーン」に入ったという。

アグレッシブなプレーで、フォアハンド、バックハンド、全てにおいて今まで感じたことない感覚で試合ができた。

「なかなか気持ちが上がらなかったのが、全豪オープン決勝で最高のプレーができたので、今までになかったプレーができるんだっていうのも、僕自身実感して。何か新しい、ようやく踏み出せたかなと思いました。(三つの呪文によって)ちょっとずつ自分の引き出しも増えたのかな」

長年積み重ねてきた「練習」はもちろん、「三つの呪文」があることで、精神面でも自然と自分自身を救っていたのだ。新境地を見出し、引退危機を見事に乗り越えた姿がそこにはあった。

「全仏」そして「ウィンブルドン初の戴冠」へ

東京パラリンピックが一年延期されたことにより、もう次のパリパラリンピックまで2年に迫っている。

「もう2年なの?という印象ですけど、あまりパリを逆算して何かやるというよりも、目の前の大会をいかに戦っていくかというところに集中しているので、あまり先は見えてないですね」

練習をする国枝

5月22日には、4大大会の一つ「全仏オープン」が開幕する。

世界ランク1位(取材時)に君臨する国枝だが、現状に甘んじる思いは毛頭ない。常に進化するため、今もすべてのショットの課題に向き合っているという。

試合で出た課題をすぐに見返し、次のレベルへと自らを高めていく。これが今のスタイル。全豪オープンで最高のパフォーマンスを見せたが、全仏オープンでも、さらなるプレーでの飛躍を目指す。

そして、その先の7月には「ウィンブルドン(全英オープン)」がある。実は4大大会26回の優勝に、ウィンブルドンは一度もない。ウィンブルドンのシングルスは、2016年から開催されたため比較的新しい大会だからだ。

「東京(パラリンピック)も攻略したというところもあるので、やっぱり残るはウィンブルドンというところは、僕のキャリアの中では重要な意味を持っていると思いますね」

まだ見ぬウィンブルドン制覇へ。引退危機を乗り越え、さらに進化した国枝慎吾にとっては、そう難しい夢でないように思える。

(取材・文/スポーツ部パラスポーツ担当:戌亥芳昭)

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