東京2020パラリンピックまで残り約40日。

パラアーチェリー日本代表・岡崎愛子は、苦難を乗り越え夢をつかんだ今、強い思いを胸に夢舞台へと挑む。

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一瞬で奪われた「当たり前」

1986年、大阪で生まれた岡崎。学生時代にはドッグトレーナを志し、ごく普通の生活を送っていた。

しかし2005年4月、JR福知山線で起きた脱線事故に遭う。その1両目に乗り合わせていた岡崎は、当時大学2年生。

1年以上に及ぶ入院生活に加え、頚椎損傷で首から下に麻痺が残ってしまった。

「どういう風に生活したらいいのかとか、学校も復学できるのかとか。“これができない”“あれができない”ことを凄く思っていた」

一瞬にして奪われた、当たり前の日々。それでも周りのサポートを支えに生活をする中で、彼女の心境には徐々に変化が訪れたという。

「家族がちゃんと社会復帰できるように生活のサポートもしてくれたし、“できない”じゃなくて、“こうすればできる”とか、できることに目を向けられるようになった」

“できない”じゃなくて“こうすればできる”

大学卒業後は一般企業に就職し、会社員も経験。常に前を向き続ける彼女について、リハビリをサポートするトレーナーの澤幸恵さんは「めちゃくちゃ負けず嫌いですね。『できないんですか?』と私が追い込むようなことを言うと、絶対に頑張ってくれます」と語る。

周囲のサポートを得ながら、一つ一つ今の自分にできることを乗り越えてきた岡崎。そして2013年、岡崎は新たな夢を見つけた。

そのきっかけとなったのは、東京でオリンピック・パラリンピックの開催が決まったこと。

岡崎は「何かスポーツを始めたいなと思って。母にアーチェリーを勧められたんです。握力がなくて弓が持てなくて、『どうやったらアーチェリーができるんだろう』というところから始まりました」と、当時を振り返る。

競技開始から3年間は、10メートル以上矢を飛ばすことができなかったという。しかし競技の的の距離は50メートル。それでも「“できない”じゃなくて“こうすればできる”」と、前へ進んできた。

普段のリハビリにアーチェリーに特化した体幹トレーニングを加えるなど、持ち前の負けん気の強さで努力を積み重ねた岡崎。

そして2019年、初めて出場した国際大会・世界選手権で3位に入賞。目標としていたパラリンピックの切符を手にした。

そんな岡崎は7月4日、約4カ月ぶりの実戦に挑んでいた。この大会がパラリンピック本番前、最後の試合となる。

50メートル先の直径80センチの的を狙い、72回の合計点を競う今大会。最も障害が重いクラスの岡崎は、両手の握力が使えないため、両端に滑車が取り付けられた弓を使用している。

練習では合計600点を出す岡崎だが、この日は雨の影響もあり「タイミングが合わなかった」と言うが、合計557点で優勝した。

苦難を乗り越え夢をつかんだ岡崎は、「『どうやったらできるか』を突き詰めていった結果が今になっている。障害を負ってもいろいろなことができるし、楽しく過ごせるということを伝えたいと思っています」とパラリンピックに向けた想いを語った。

来る夢舞台へ向け、自身初のメダル獲得を目指し、調整を続けていく。