福岡市で行われた、全日本選抜柔道体重別選手権大会。

階級ごとの日本一を決めるこの大会は、これまで古賀稔彦、野村忠宏、井上康生ら、多くの名選手たちが日本一となり、世界へと羽ばたいていった。

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そんな中、60kg級で優勝した古賀玄暉選手(22)は、「特別な覚悟」とともにこの大会に挑んでいた。

父への恩返しを原動力に挑む、日本一への挑戦

今から29年前のバルセロナ五輪。

古賀稔彦さんは試合の11日前、後輩の吉田秀彦さんとの稽古中に、左ひざ靭帯損傷の大けがを負った。

痛み止めを打ち、足が言うことを聞かない中、それでもこだわりの背負い投げで71kg級で金メダルを勝ち取る姿は、まさに「平成の三四郎」そのものだった。

引退後は後進の育成に励んでいた古賀さんだったが、3月24日、突然の訃報が世間に衝撃を与えた。

がんの為、53歳という若さでこの世を去った。

その5日後、古賀さんの次男・古賀玄暉選手は父への想いをSNSに綴っていた。

そこには、「柔道家として、男として、永遠の憧れです。そして、いつも強く優しい世界一の父でした。恩返しできるよう、教わったことを忘れずに、これからも一生精進・常に前進して行きます」という言葉があった。

更に別の投稿には、父がオリンピックで勝利した瞬間の姿と共に、「My hero」との一言も。

父への恩返しを原動力に挑む、日本一への挑戦。

しかし、そんな古賀玄暉選手を運命のいたずらとも言える試練が襲っていた。

試合直前に負った亡き父と同じ怪我

試合の10日前に、稽古中に左ひざの内側じんたいを損傷。奇しくもあの時の父と同じ、左ひざだ。

それでも1回戦、福田大吾との対戦では、絞め技でいとも簡単に一本勝ちを収めると、続く準決勝では、優勝候補の難敵・青木大選手を相手に、試合終了4秒前に大内刈りで劇的一本。

父が6連覇を果たしたこの大会で、憧れの存在に一歩でも近づくため、決勝の畳に上がる古賀玄暉選手。

対するはベテラン・竪山将選手。

果敢に攻める古賀玄暉選手は、内股で技ありをとるも、その1分後に巴投げで技ありを奪われ、ゴールデンスコアの延長戦に突入する。

この延長戦は、技のポイントが入った時点で終了し、どちらかが指導を3つ受けた時点で反則負けとなる。

共に指導2つをもらい、あと1つ出たら反則負けとなる中、痛む足で攻め続ける古賀玄暉選手。

「このまま勝負に行かずに指導もらっても後悔するなと思ったので、自分の中で一発何でもいいから投げられる技を頭の中でパターン化して」

延長戦も6分が過ぎた10分14秒、最後は肩車で技ありを奪い、あわせ技一本で勝利。

多くの苦難を乗り越え、見事日本一に輝いた。

涙で何度もつまりながらも、「率直に嬉しいという気持ちが一番と、色々とあったんですけど、何も恩返しできずに亡くなってしまったので、なんとしても優勝したいという気持ちで戦いました」と語った。

野村忠宏が聞いた父への想い

同階級で五輪3連覇し、古賀稔彦さんとアトランタ五輪でチームメイトだった野村忠宏さんが、会場でその雄姿を見届け、今の想いを聞いた。

野村忠宏:
10日前に膝の怪我をして、お父様のご不幸もあって、試合を迎えるまでにどういう思いで調整をしてきたんですか?

古賀玄暉:
できることは限られていたんですけど、今やれることをやってきたんで、試合に挑める形を取れるように調整してきました。

野村忠宏:
古賀稔彦先輩は我々にとっても憧れの存在だったし、玄暉選手にとって古賀稔彦さんという存在は柔道家としての部分とお父さんとしての部分、違うわけでしょ?

古賀玄暉:
家でも柔道の話は全然なかったので、自分の中では普通の父という感じです。でも自分がなにか柔道で迷ったときに父に聞くと、それに対しての答えをいつも教えてくれて、それが試合運びの中で凄い力になっていたので。

野村忠宏:
俺も三四郎になってやるという気持ちはあるの?

古賀玄暉:
父に恥じないように努力していきたいと思います。
 

父に捧ぐ、悲願の頂点に立った古賀玄暉選手。この優勝は大会初の親子優勝となり、世界選手権代表にも初選出された。

「やっぱり試合の合間にいつも連絡をくれていたので、それが無いというのは寂しかったですけど、でも覚悟が今まで以上に強くなったので、最後まで勝ちきることができました」

そう語った古賀玄暉選手。

3年後の大舞台・パリ五輪に照準を定め、活躍を誓う。