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火災から7年、よみがえる首里城正殿 精密な復元を可能にした“鎌倉芳太郎”とは何者なのか?|FNNプライムオンライン

火災から7年、よみがえる首里城正殿 精密な復元を可能にした“鎌倉芳太郎”とは何者なのか?

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2026年11月、火災から7年の月日を経て、首里城正殿がいよいよその姿を見せる。琉球王国時代の姿に近づけるため、古文書や写真といった数々の資料を紐解きながら進められてきた再建事業。

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その復元の舞台裏で決定的な役割を果たしたのが、大正時代に一人の研究者が残した膨大な記録だった。その研究者は、香川県出身の美術教師・鎌倉芳太郎。彼が情熱を傾けて守り抜いた文化財と詳細な記録は、時を超えて首里城復興の根幹を支え続けてきた。

質が高く膨大、広い領域にまたがる「鎌倉資料」

1921年に美術教師として沖縄へ赴任した鎌倉は、琉球文化の美しさに深く魅了され、毎日首里城へ足を運ぶほど研究に没頭していたという。しかし1924年、老朽化を理由に正殿の取り壊しが決定する。危機を知った鎌倉は即座に行動を起こした。

当時東京にいた鎌倉が残した手記には、当時の切迫した心境が刻まれている。

「私はこのことを琉球文化保存会の同志の飛電で知り、その保存の価値と急務を説いたのであります」

建築家の伊東忠太へ直訴したことで解体工事は直前で免れ、首里城は最初の危機を脱した。その後も鎌倉は県内各地を巡り、7,500点を超える写真やスケッチ、紅型の型紙を記録していった。

沖縄県立芸術大学の波照間永吉名誉教授は「素晴らしい価値を持った非常に質の高い資料であり、それがこれだけ膨大で、色々な領域にまたがっている。そこが鎌倉先生の仕事の偉大さだと思いますね」と語る。

この膨大な資料は、後に激化する沖縄戦の戦火を東京で奇跡的に免れることとなる。1950年、鎌倉さんは手記にこう綴った。

「世界に唯一残った琉球資料であることは申すまでもありませぬ。文化の実相だけは廣く傳へなければならないという気持ちで一杯であります」

令和の解像度で蘇るディテール――“首里城を3度救った男”

鎌倉の遺志は、平成と令和の復元の現場でも真価を発揮することとなった。平成の復元時には、鎌倉が書き写した1768年の工事記録「寸法記」が発見され、解明が困難を極めていた建築詳細の重要な手がかりとなった。

そして今回の令和の復元では、最新のデジタル技術によって鎌倉が撮影した写真原板が高精細化され、さらなる新事実が浮き彫りとなったことで、軒丸瓦や正殿2階の御差床(うさすか)まわりの欄干の形状、緻密な模様までもが明確に読み取れるようになったのだ。

「昔のものでは、ただ黒くしか見えないところの背景まで見えるようになったというわけです。軒丸瓦も今回変わるんですよ」(波照間名誉教授)

大正の取り壊し阻止、平成の復元、そして令和の精密な再現。“首里城を3度救った”とされる鎌倉の功績を称え、2025年には首里城を望む沖縄県立芸術大学の敷地内に顕彰碑が建立された。那覇市や石垣市でも名誉市民に選定されるなど、その功績は今も地域に深く刻まれている。

蘇った朱の城郭に宿る一人の情熱

膨大な手記やスケッチに残された筆致からは、琉球の美に魅了された当時の情熱と感動の息吹がひしひしと伝わってくる。波照間名誉教授はこう語る。

「鎌倉先生という偉大な方の業績を訪ね、首里城も、そして沖縄文化全体も見てほしい。自分の足元の文化も見てほしいなと思います」

色鮮やかな赤を身に纏い、令和の空に再び立ち上がった首里城正殿。その美しい佇まいの奥には、100年前に沖縄・琉球文化を愛し、その記憶を未来へ繋ごうと奔走した一人の研究者の静かな情熱が脈打っている。

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