鉄道のまちとして知られる福井・敦賀市は、日本で5番目に線路が敷かれたまちだ。北陸新幹線の始発・終着駅となったいま、その理由を探ると、古くからの港と三方を囲む山という地形が見えてきた。敦賀市立博物館の高早恵美館長と一緒に田丸萌夕希アナウンサーが歩いて、その歴史に触れた。
関西と中京の“結節点”敦賀駅
まず、田丸アナウンサーが訪れたのは、北陸新幹線の始発・終着駅である敦賀駅だ。大きな駅舎の中には新幹線も見える。
北陸新幹線は2年前に敦賀まで延伸。敦賀駅は関西や中京をつなぐ列車の結節点として、多くの人でにぎわっている。
敦賀は、いまから140年以上前の1882年(明治15年)に、日本海側で初めて鉄道が敷かれたまちである。
今回は、敦賀の鉄道の歴史を知るために、敦賀市立博物館の学芸員で館長の高早恵美さんに案内してもらった
「天然の良港」が鉄道を呼んだ
海に近い金ヶ崎エリアで、高早さんが取り出したのは、江戸時代の絵図。そこには舟や倉庫が並び、にぎわう港の様子が描かれている。敦賀は古代から「天然の良港」として栄えてきた。
高早さんは栄えた理由を、湾が深く入り組んで波の穏やかな港であること、そして京都・大阪といった大都市に近い港であったことだと説明する。
この港の繁栄は、鉄道のスタートにも大きく影響した。金ヶ崎には、かつてあった駅舎を再現した鉄道資料館がある。残されている明治15年頃の鉄道路線図を見ると、金ヶ崎の港まで鉄道が来ていたことが分かる。
明治の初め、国は京都と東京を結ぶ鉄道、いまの東海道を計画した。そのうえで日本海側のどこかと結ぼうとしたとき、選ばれたのが敦賀の港だったという。
近代化が進む明治時代、国は東海道と日本海側を結ぶ輸送ルートとして敦賀に注目したのである。こうして明治15年、敦賀は日本海側で初めて、全国では5番目に鉄道が敷かれた。
その後の発展には、地形も一つの要因になっていると高早さんは話す。その理由をひも解くため次の場所へ。
「大変な難所」北陸トンネル
向かったのは北陸トンネルの敦賀側入り口である。敦賀から北の福井方面へは、1896年(明治29年)に旧北陸線が最初につながった。
高早さんによると、旧北陸線は山の中を曲がりくねり、一度海側にも出て、大変な急こう配を蒸気機関車が苦労して上っていく路線で「すごい“難所”として知られていた」という。
この難所を越えるため、多くの機関車や関連する職員が敦賀に配置された。それが、敦賀が「鉄道のまち」と言われる所以になっていく。
“デゴイチ”の愛称で知られる蒸気機関車「D51」も、敦賀―今庄の急こう配を走り、人やモノの輸送を支えた。
約150年前につくられ、日本の鉄道トンネルとして現存する最古の鉄道トンネルとされる滋賀県境の小刀根トンネルには、あるエピソードが残る。高早さんは「かの有名な蒸気機関車D51は、このトンネルを通ることを想定して設計されたといわれている」と語る。
「ここを通れないと意味がなかった」ため、機関車までが敦賀に合わせて造られたというわけだ。
地名にも鉄道が息づく街、そして時代は新幹線に
昭和後半になると、敦賀は「ブルートレイン」と呼ばれた寝台列車を引っ張る電気機関車が多く置かれ、機関車を交換する拠点となった。
敦賀駅前の地名「鉄輪町(かなわちょう)」も、鉄道に由来した名前としていまも息づいている。
高早さんは、鉄道が来た理由を、京阪神に近い古くからの港があったことだと振り返る。三方を山に囲まれた敦賀は、鉄道にとって「不利な場所」だった。しかしそれを乗り越え、いまは新幹線が来ている。

敦賀ならではの地理的な特徴と歴史を背景につながったレール。これからも敦賀は、きっと「鉄道のまち」であり続けるだろう。

