岩手県北上市の西側に広がる和賀町。
この「和賀」という地名には、約1200年前にまでさかのぼる歴史が刻まれている。
長年、岩手県内の地名を調査している宍戸敦さんによると、「和賀」は平安時代前期に成立した地名と考えられているという。
宍戸敦さん
「『和我』『ひえ縫(ひえ=稗に草冠)』『斯波』という三つの郡が置かれた頃から始まった地名。『和賀』はアイヌ語系の地名ではないかと考えられる。アイヌ語の『ワッカ』には“清らかな水”という意味がある。和賀川の清流や湧き水を表した言葉が、『和賀』の地名が成立したと考えられる」
和賀地域には「清水(すず)」と呼ばれる湧水が数多く存在する。こうした湧水は古くから生活用水として利用されてきたほか、現在も地域の特産品である「江釣子せり」の栽培を支えるなど、人々の暮らしに欠かせない存在となっている。
一方、和賀町の東側に位置し、県内有数のセリの産地として知られる江釣子地区について、宍戸さんは「こちらは日本語由来の地名と考えられる」と説明する。
宍戸敦さん
「江釣子は、『エ・ツラ・コ』の三つに分けて解釈できる。『エ』は川、『ツラ』は面するあるいは連なる、『コ』は場所を意味します。つまり『川に面した集落』という意味。江釣子の場合は、『和賀川に面した集落』」を示した地名だと考えられる」
かつて和賀川沿いにあった集落が由来と考えられる「江釣子」。
この場所には奈良時代に作られたと考えられる「江釣子古墳群」という遺跡が、広い範囲に残されている。
この「江釣子古墳群」について、北上市立博物館学芸員の杉本良さんは次のように説明する。
杉本良さん
「江釣子古墳群は、北上川最大の支流である和賀川の北側に並ぶ古墳群。奈良時代を中心としたもので蝦夷たちの墓と考えられている。県内で一番大きい古墳群で200基を超えるほどの古墳があったと考えられる」
古墳群の周辺には大規模な集落も広がっていた。
杉本さんは「江釣子古墳群が川沿いのところに並んでいて、北側がもう一段い台地があり大きな集落・村が並んでいた。台地の端に湧水(清水)がたくさん湧いていた。人々が暮らすのに便利な場所だった」と説明する。
杉本さんによると、集落の規模も大きく古墳群には蝦夷の村の中でも族長級の人物が葬られ、その下にも多くの人々が暮らしていたことを考えると、非常に大きな集落だったのではないかという。
「江釣子古墳群」のような蝦夷の遺跡は、県内を始め北東北周辺で多く見つかっている。
そして蝦夷の地域では、アイヌ語が由来と考えられる地名や北海道の文化の影響が見られる出土品が多く見つかっている。
杉本良さん
「江釣子古墳群の時代より少し前、北海道を中心に“続縄文文化”が発達する。“続縄文土器”が、青森県・岩手県・宮城県北など北東北で見つかっている。北東北は南からの文化と北からの文化が接触するような場所だった」
赤く塗られた土器(出土品)について杉本さんは、「胴を真っ赤に塗り口の部分に4本の線の文様を入れたりしている。こういう土器はこの地域でしか見つからない。北方の“文様をつける”文化と、南方の“赤く塗る文化”が合体した土器。北と南の交流、北海道の方の影響を受けて出来上がったのではないか」と話す。
「和賀」に残るアイヌ語の響きと、「江釣子」に刻まれた古代集落の記憶。二つの地名は、この地域が北海道文化と深く結びつきながら発展してきた歴史を今に伝えている。
