多くの疎開学童を乗せた船が米軍潜水艦によって撃沈された「対馬丸事件」から82年。
沖縄県那覇市の旭ヶ丘公演にある慰霊塔「小桜の塔」では、毎年犠牲者を悼む慰霊祭が執り行われている。しかし、この塔が沖縄から遠く離れた愛知県の人々の手によって建立されたという歴史は、あまり知られていない。

なぜ愛知の人たちが、子どもたちへの祈りを沖縄で慰霊塔という形に結実させたのか。現地での取材によって1人の人物の政治的信条と時を超えて受け継がれる平和への思いが浮かび上がった。
今の豊かさと戦時中の苦しさの違いを伝えたい
愛知県一宮市。植樹されたカンヒザクラの傍らに小桜の塔にまつわる記録がある。

一宮ロータリークラブでは対馬丸事件を描いた冊子を発行し、次世代への平和学習を続けている。同クラブ元会長の梯國彦さんはこう語る。
「今を生きる子どもたちの豊かさと、当時の子どもたちの苦しさとの違いが子どもたちに伝わればいいなと思っています」

小桜の塔建立の原点は73年前。一宮市で活動していた「すずしろ子供会」会長の河合桂さんが、事件を知り「戦争の犠牲となった子どもたちを慰霊する塔を建てたい」と考えたことに遡る。
その切実な思いを受け止めたのは地元選出の愛知県議会議員・松浦浅吉さんだった。

松浦さんは「一円募金」という草の根の運動を提案し、県知事へ働きかけるなど奔走。子供会から始まった活動はやがて県民運動へと発展し、集まった浄財と資材によって小桜の塔は完成した。
松浦の人物像について、かつて実家近くの興禅寺で前住職を務めた林麟州さんはこう振り返る。
「沖縄の子どもたちの悲惨な状況を見て、何か自分たちのできることをやりたいと考えて行動したんじゃないかと思います。こうした動きはある程度の政治力がないとできない。そういう(松浦さんの)力も大きかったと思います」
最後まで貫き通した政治家としての信条

小桜の塔が完成して5年後、松浦さんは57歳で帰らぬ人となった。孫にあたる後藤邦さんは10年前に沖縄の地を訪れるまで、祖父が塔の建立に深く関わっていた事実を知らなかったという。
「10年前に対馬丸記念館に訪れた時に、感謝の言葉を当時の理事長の外間さんからおっしゃっていただいて…。その後、対馬丸事件のことを学んで、どうしてもっと早く知らなかったんだろうと後悔しました。」

身内にも詳しく語ることのなかった祖父の心情を、後藤さんはその生き様から推察する。
「祖父は政治家として『善意の拡大』といった信条を掲げていました。将来ある子どもたちがそ悲惨な目に遭ったというのは、祖父にとってはいたたまれない出来事で、政治家として当たり前のことをしたのではないかなと思います」

当時の『琉球新報』(1954年5月3日付)には、松浦さんの切実な胸の内が記録されている。
「沖縄の地で戦没した愛知県出身将兵の多くが、遺骨はおろか、遺品すら無く届けられた。小桜の塔を建設することは戦没学童の霊を慰める傍ら、戦没した県出身将兵の慰霊にもなる」
沖縄戦では愛知県出身の兵士も多数投入され、命を落とした。小桜の塔は子どもたちの命を悼むと同時に、遠く離れた郷土の遺族たちの悲哀を包み込む存在でもあった。
遺族の救いと、世代を超えて受け継がれる記憶
1959年に現在の場所へ移転した小桜の塔の付近には、2004年に対馬丸記念館が開館した。対馬丸事件で2人の姉を亡くした記念館終身アドバイザーの外間邦子さんは、設立当時の強いこだわりを明かす。

「私が少し頑固で、どうしても小桜の塔の横に対馬丸記念館をというのは譲れなかったんですよ」
海に沈んだ家族を思い続けてきた遺族にとって、愛知の人々が建てた塔は心の拠り所となっていった。
「姉が2人、まだ悪石の冷たい海の底だと思っていたけれど(小桜の塔があれば)対馬丸の子どもたちがみんなで帰ってきて安らかに、守り神としてまた生まれ変わるというか。こういう場所があると、遺族として穏やかな気持ちになっていく。松浦さんが作られたというのを聞いて、感謝しかなかったですね」

小桜の塔建立の出発点となった一宮市は、中学生の沖縄派遣事業を継続しており、2026年夏にも30名の生徒が対馬丸記念館を訪れた。
参加した一宮市立西成中学校3年の原いろはさんは、建立の経緯を初めて知ったという。
「最初は(関わりを)知らなくてビックリしたし、一宮市から沖縄まで遠いのですぐ時間やお金もかかる。苦しい想いに共感して皆で復興していきたいという気持ちが伝わってすごいなと思いました」

政治家の理念と愛知の人たちの平和への思いによってつくられた小桜の塔。82年の時を経た今も、海を越えた人々の思いと記憶を結びつけ、平和を紡ぐ道標として佇んでいる。

