戦後80年「幻の地下壕」です。終戦間際、長野市周辺の善光寺平で、いわゆる「松代大本営」など「本土決戦」に向けた準備が急ピッチで進んでいました。山一つ隔てた現在の筑北村坂井地区(旧坂井村)でも地下壕の建設が計画されました。「全村動員」が叫ばれながら、わずか2日間で終わった工事について住民たちの貴重な証言が得られました。

■善光寺平で進む「本土決戦」準備

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、現在の長野市松代町に政府の中枢を移転しようと、陸軍の主導で象山・舞鶴山・皆神山の3つの山に爆撃にも耐える地下壕を作る工事が進んでいました。

最も規模の大きい「象山地下壕」は、長野市の篠ノ井旭高校(現:長野俊英高校)郷土研究班の研究や保存・活用を呼びかける活動が実を結び、長野市が一部を整備して安全を確保した上、1990(平成2)年から一般に公開しています。また、舞鶴山の地下壕は気象庁の地震観測所に活用され、天皇御座所として作られた建物も現存しています。


松代から北西に10キロ余り離れた現在の長野市安茂里小市でも海軍が地下壕の工事に着手し、100メートルほど掘ったところで終戦を迎えました。地元有志で作る「昭和の安茂里を語り継ぐ会」の尽力で、2021(令和3)年から「大本営海軍部壕」として資料館とともに公開しています。(注:事前予約制)

このほか、現在の長野市大豆島にあった長野飛行場の拡張や、長沼地区への飛行場の新設、そのほか通信施設や地下倉庫などの工事が各地で行われ、「本土決戦」に向けた準備が着々と進んでいたのです。


■山一つ隔てた村にも地下壕計画が...

善光寺平から南西へ山一つ隔てた筑北村の坂井地区。当時は坂井村と言った山里にも戦争の影が忍び寄りました。山秋という小さな集落の背後にある山に地下壕を作る計画が持ち上がったのです。

当時、松代大本営の工事に携わっていた将校が、坂井村の地下壕を指すとみられる記述を残しています。

「極秘裏に地下壕の適地を姨捨山の西側高地・松代より西10キロに探して歩いた」
「終戦の日は姨捨山の裏側の次の候補地を見に行っていた」(「軍事史学」 『松代大本営工事回顧録』より)


■突然の計画 「全村動員」に戸惑い 

計画は村にとって文字通り「寝耳に水」だったようで、「坂井村誌」は当時の慌ただしい雰囲気を伝えています。

「突然、海軍補給廠と陸軍東京経理部が疎開して来ることとなり、東部軍の担当の将校が来て役場に泊まり込みで指図をするようになった。また海軍航空本部の将校も役場に泊まり込み地下工場を作るといって、山秋・堀海道、須明・永井中村の山麓に横穴を掘る命令を下した。農繁期であったのに大人数(全村一戸一人)の動員であったから村内騒然たるところへ東部軍の経理部による資材が突然鉄道貨車で何十両も到着し保管を命ぜられた。下安坂・下永井の土蔵・学校の体操場教室・さては神社の舞台にまで積み込まれた。これも全村の勤労動員であった」 

軍事教練や兵士の出征はありましたが、1945(昭和20)年になっても都市部と異なり空襲などとは無縁だった村に、突然「戦争」がやって来たのです。

■斜面を削って平らにした跡は今も

2025(令和7)年4月22日、筑北村で「昭和の安茂里を語り継ぐ会」などの現地調査が行われ、長野放送も同行しました。山秋集落の裏山には本格的に掘削した跡こそありませんでしたが、工事の準備のためか、斜面を人為的に削って平らにしたと思われる場所が80年が経った今も残っていました。

地主の宮下幸一さん(86):
「終戦当時、坂になってる場所に来てみたら平らになっててびっくりしました」

■集落の裏山に掘削予定の壕は4つ?

終戦時に15歳だった田中頌子さん(94)は、地下壕の目印にするためか、斜面に刺した2本の木の棒の間に縄を張った所がいくつもあったと話します。記憶を頼りに見取り図も描いていただきました。

田中頌子さん:
「縄が張ってあったのはその木の少し上とあの木の少し上。一つ、二つ、その木とそちらの畑にあった」

記憶を頼りに田中さんに描いていただいた見取り図から、壕の予定地ではと思われる所を現在地に落としてみました。具体的な場所は確定していませんが、山裾に近接して4ヵ所程あったようです。


萬井久純さん(87)は、村の有力者で村議などを務めていた父から当時、地下壕のことを次のように聞いたと話します。

萬井久純さん:
「親父は、軍隊が来て大事な書類を入れる所だよと話していました」


■工事は実質わずか2日間 

「坂井村誌」の記述から、山秋集落での地下壕の工事は8月14日に始まったと見られ、田中頌子さんは翌15日に大勢の住民がくわを持って作業に向かうのを目撃していました。

田中頌子さん:
「15日の朝に家の前を通って何人登っていったかね、工事に行くと言って登っていきました。隊列組んでしっかり登ってというわけではなくて、もう三々五々という感じ」

「村誌」にある通り、「全村動員」で着工されたことが伺えます。

しかし、田中さんが目撃したまさにその日に工事は終わることになります。

田中頌子さん:
「玉音放送を聞くってことになって...でもラジオは良く聞こえなかったけど。さあ、それからみんなで負けただ勝っただ、負けた勝っただと... 時に終戦だなって。良くわからないからわんわんと騒ぎになって、みんな家に帰っちゃった」

「本土決戦」は幻に終わり、村が戦火に巻き込まれることはありませんでした。


■体操場で少年が見たものとは?

当時7歳で坂井国民学校(現:筑北小学校)の1年生だった宮下幸一さんは終戦後、軍の物資を貯蔵していた体操場に友達数人で忍び込んだ際、意外な物を目撃しました。

宮下幸一さん:
「飛行機のプロペラがあった。それも木で出来た物で、あと物凄く大きいタイヤがあった。何でこんな所にあるんだろうと思ったね。田舎で飛行機なんて。飛行場も無いわけだから」 

プロペラが置かれていたことは、村誌の「海軍航空本部の地下工場を作る」という記述とも一致しそうですが、子どもたちのお目当ては別の物でした。

宮下幸一さん:
「中に黒砂糖があるってことで、みんなで寄ってたかって砕いて、少しずつ頂いていったんだ。当時は食べるものが無かったからね。もう大ごちそうだった」

■広範囲で進んでいた決戦への準備

今回の現地調査をした「昭和の安茂里を語り継ぐ会」の土屋光男事務局長は、「本土決戦」に向けた準備は想像以上に善光寺平の広範囲で進んでいたと見ています。

土屋光男事務局長:
「本土決戦の準備はせいぜい北は中野市まで、南は千曲市くらいまでと思っていましたが、中信地域の一角の東筑摩郡北部まで及ぶ壮大なものだったことがわかりました。今回の調査の一番の成果です。坂井村が選ばれたのは山の中で守りやすいこともあったのではないでしょうか」

戦後80年。住民の貴重な証言が記憶の彼方にあった地域の歴史を見つめ直すきっかけになりそうです。

長野放送
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