沖縄戦の終結から81年が経ち、戦争の記憶を直接語り継ぐ体験者は年々減少している。時間の経過とともに風化が懸念されるなか、「100歳まで語り部を続けたい」と自らを奮い立たせる女性がいる。

沖縄県糸満市出身の上原美智子さん、90歳だ。かつて戦場となったこの島で父と弟を失った彼女は、今も平和学習の場に立ち続け、子どもたちや修学旅行生へ自らの体験を語り続けている。
万歳で父を戦地に見送った…
1935年、旧摩文仁村小渡(現在の糸満市大度)に生まれた上原さんは、農村で穏やかな少女時代を過ごしていた。父親の背中に乗り、畑へ向かった楽しい思い出は今も心に鮮明に残っている。
しかし1945年、激化する太平洋戦争に父・蒲吉さんが38歳で防衛隊に召集された。当時9歳だった上原さんら家族は万歳をして見送ったという。
「あんなに喜んで。自分の父親が戦争に行くというのにね、喜んで万歳して見送って。これはもう今でも悔いになっているわけ」

父と会えたのはそれが最後となり、遺骨は今も戻っていない。
同年3月、米軍による沖縄本島への砲撃が始まると、上原さんは生後8ヶ月の弟を背負い、幼いきょうだいの手をひいて近隣の「アマンソウガマ」と呼ばれる自然洞窟へ避難した。だが、暗闇のガマで幼子の泣き声は、極限状態にある大人たちの怒号に掻き消された。
「まーのくゎーやが、敵んいかい見つかったらやられるよ(どこの子か、敵に見つかったらやられるよ)泣けーさんけ、泣けーさんけ(泣かすな)」

「出ていけ」という厳しい怒声に押し出されるようにガマを去った上原さん一家は、3〜4日間歩き続けて恩納村の山中へと疎開した。山小屋での潜伏生活は、野草を探して食いつなぐ過酷な日々だった。
「カズラの葉っぱとか、桑の葉っぱとか食べられるものを子供たちは探すのが日課だった。一日一日の命、いつ自分たちは爆弾に当たって死ぬかわからんというあの気持ちを心の奥に秘めながらの一日一日の生活」

飢えと恐怖が渦巻く避難生活のなか、4月下旬に末の弟が栄養失調で息を引き取った。遺体はやんばるの山中に埋めるほかなかった。戦後埋めたであろう場所を訪れたが緑が生い茂って判別できず、近くに生えていた植物を代わりに愛でているという。
その後、捕虜となり移送された石川収容所での暮らしも凄惨を極めた。
「人間扱いじゃないですよ。惨めな。あれで生きてきたんだからね」 「今でも残ってるさ、この言葉が。『艦砲ぬ喰ぇー残さー』(艦砲射撃の喰い残し=艦砲射撃を生き延びた者)。ああいう艦砲射撃の中、それを乗り越えてきた人たちがみんな収容所に運ばれている」
遺骨収集の現場で見出す「命の重み」

戦後、教師となった上原さんは、自らの壮絶な体験を少しずつ生徒たちに語り始めた。退職後も修学旅行生などを対象とした平和学習の講師を務め、沖縄県外から訪れる遺骨収集団の受け入れにも深く携わるようになった。
「(遺骨が)見つかった時のあの感激を見てね。自分の父親もこんな風にどこかで埋まっているかもしれない、見つけられたらいいなという思いもある。そして遺骨収集に関わって、今日まで」
長年にわたる平和教育の推進と発信が評価され、上原さんは2025年に沖縄県功労者として表彰を受けた。平和祈念資料館友の会の副会長も務める彼女の根底には、戦争の過ちを二度と繰り返させないという強い使命感がある。

「戦闘で、武器でやられるんじゃなくて、自分の地域の平和なことを考えると、平和学習というのが絶対必要だと。一生涯必要だと」
100歳まで語り継ぐ、託された未来
今年の慰霊の日。沖縄県糸満市摩文仁の平和の礎を訪れた上原さんは、刻まれた父と弟の名前を愛おしそうになぞり、静かに手を合わせた。

「みーまんてぃうたびみそーりよ(見守ってください)。おとうさんの38歳の人生だったけれども、蒲吉さんのくゎんまがんちゃー(子孫たち)みんな広がっています。頑張っています。みんなから非常に大事にされていたお父さんの姿が目の前に浮かびます」
90歳を迎えた今もなお、彼女の内に秘めた熱量が衰えることはない。

「この平和の礎がいつまでもこのように語ることができるように。できたら100歳ぐらいまではそういう支援ができたらいいかなと思っています。沖縄県の行く末を何とか語り部をしながら見守っていきたいなと燃えています」
学徒として動員された者、避難先で飢えに苦しんだ者…過酷な時代を生き抜いた一人ひとりが見つめた戦争の記憶。上原さんが体験した悲劇の歴史を単なる過去として終わらせず次の世代へと繋ぎ続けるためには、これからも刻まれた記憶と向き合い続けなければならない。

