プロボクサーとしてデビューから5戦5勝。次戦では日本ランキング入りを懸けた試合に挑む、スーパーライト級を主戦場とする中島海二選手(八王子中屋ジム)は元高校球児だ。

山梨の強豪校・東海大甲府の外野手だった彼が3年生になった2020年、夏の甲子園大会は戦後初めて中止になった。

高校球児にとっての「夢の舞台」に立つことが叶わなかった彼がボクシングという“別世界”に飛び込んだのはなぜなのか、新型コロナが5類に移行して9カ月が経つ今、「あの夏」をどう感じているか聞いた。

(取材・文:フジテレビアナウンサー 勝野健)

全ては「あの場所」に立つために

中島海二選手(21)は、小学一年生の時に野球を始めた。きっかけはプロ野球ではなく、高校野球。テレビから流れる、甲子園で躍動する高校生たちの姿に心躍ったという。

「中学校はシニアチームでプレーして、高校も甲子園に行ける可能性が高いということで地元の山梨県の強豪である東海大甲府を選びました。
プロ野球選手になるということは考えていませんでした。全ては甲子園に行くためという感じで」(中島選手)

インタビューに答える中島海二選手
インタビューに答える中島海二選手
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ーーどんな選手だった?
走攻守バランスの取れた外野手という感じでした。部員が100人近くいる大所帯の中でのレギュラー争いというのはもちろん熾烈でしたが、食事やトレーニングを特に意識して取り組んで、レギュラーを勝ち取りました。入学時は60キロくらいだった体重も、最後は80キロを超えていました。

目標を失った高3の春

甲子園で活躍するという夢に向かって中島が練習を重ねていた高校2年の冬、新型コロナは日本国内でも拡大を始める。3年になった4月、政府は東京や大阪など7都府県に緊急事態宣言を発令。

当時寮生活を送っていた中島も寮を出て自宅でのトレーニングを余儀なくされたという。

ーー寮を出た後はどのように過ごしていた?
最初はオンラインツールを使ってリモートで練習をしていました。幸い少ししてから、集まっての練習は再開されましたが、様々なスポーツの大会やイベントが中止になっていく中、甲子園はどうなるのかなという気持ちでした。

ーー夏の甲子園大会の中止が決まったときは何を考えた?
やっぱりかという気持ちが強かったですね。野球だけ開催されるような状況ではなかったので。悔しかったです。

一時は投げやりになっていたという中島
一時は投げやりになっていたという中島
 

ーーチームの雰囲気は?
大会がないのなら、早く引退したくね?という雰囲気もあって、モチベーションを保てずに練習を休む3年生もいました。監督も3年生に対して「やる気がないのなら来年を見据えて2年生中心のチームにする」ということを言っていて、チームとしてまとまってはいなかったです。自分自身も様々な制限がかかる中、何のために練習しているのだろうとなげやりになっているときもありました。

大泣きしながらバットを振った日

夏の大会の中止が決まり、一時は投げやりになっていたという中島。しかし、コーチから呼び出されたことが“転機”となる。

ーー呼び出された時は?
清水先生という、よく面倒を見てくれていたコーチに「中島、ちょっと来い」って呼び出されて。ネットの前でトスをひたすら上げてもらいました。何を言われたかはあんまり覚えていないのですが、「もう一度野球やろうぜ」みたいなことを言われて。気が付いたら大泣きしながらバットを振っていました。

ーー涙の理由は?
悔しさと…あと先生の優しさじゃないですか。一つ一つの言葉に自然に涙が出ていました。
 

“最後の夏”を前に、くすぶっている自分に対しての悔しさ。ボールを通じて伝わってくる先生の優しさ。このトスをきっかけに中島は前を向き始めたという。

「もしかしたら」という想いで再スタートをきった

5月末、日本高校野球連盟は夏の甲子園に代わる都道府県ごとの独自大会の実施要項を発表。
およそ1カ月後、山梨県高野連も「県大会」の開催を決めた。もちろん全国大会は行われない。

ーー当時の心境は?
甲子園でやりたいという気持ちはもちろんありましたが、大会が開催されるだけありがたかったです。俺らが頑張っている姿を見せていれば、もしかしたらルールが変わって甲子園に行けるようになるかも・・・みたいなことをみんなで話していました。この大会で何としても優勝しようというのがチームの目標でした。

(2020年8月)
(2020年8月)

そして迎えた決勝。中島は6番センターでスタメン出場し、3打数2安打と活躍。チームは5対4で勝利した。東海大甲府が夏の県大会で優勝するのは5年ぶりのことだった。

ーー優勝した瞬間、チームは?
もう言葉に言い表せない喜びでした。泣くことあるんだという人も号泣していて。たとえ甲子園という舞台に繋がらないとしてもこの大会で優勝した意味は大きいんだと感じることができました。

ーー甲子園への思いは残っていたのでは?
優勝という綺麗な形で終わったのもあって、甲子園への未練というのは自分の中ではあまりなかったです。野球もやりきったという感じでした。

「プロボクサー」という第二の人生

中島は高校を卒業した後、専門学校に進んだ。将来の夢は消防士。もうスポーツを本気でやることはないと思っていたそうだが、「体づくりのために」と通い始めたボクシングジムでその才能を見出された。

八王子中屋ジムの中屋廣隆チーフトレーナーは中島を、「運動神経が良くて、スポンジのようにどんどんと教えたことを吸収していく」と評価する。

ファイティングポーズをとる中島
ファイティングポーズをとる中島

ーー野球をやっていたことは活きている?
バッティングとフック系のパンチは似てるとか、投げる動作とストレート系のパンチは似てるとか、野球の動きに例えて指導してくださるのですごく分かりやすいです。やっぱり野球の動きは体に沁みついているので、そういうことねと分かる感じはあります。
あと、練習時間が野球をやっていた時よりも短いので、グッと集中して取り組めるのはいいですね。
 

2022年7月にプロデビューした中島のこれまでの戦績は5戦5勝(4KO)。次の試合に勝てばA級ボクサーとなり、「日本タイトル」への挑戦も視界に入ってくる。
しかし、次の対戦相手は川村栄吉選手。アマチュア時代に国体準優勝し、プロ入り後はスーパーライト級の全日本新人王を獲得。そして現在は日本ランキング9位という強敵だ。

ーー試合に向けて
やるだけですね。野球部の仲間も、はじめは「喧嘩だろ」「ガチじゃないんだろ」という感じでしたが、今はすごく応援してくれています。今年はユース(24歳未満)のチャンピオンになることが目標で、一つ一つ階段を登っていきたいです。

「コロナのおかげ」と思う自分もいる

ーー改めて、甲子園という舞台がなかったあの夏を今はどう振り返りますか?

中島:当時はコロナを恨む気持ちがもちろんありましたけど、もしあの夏甲子園に行っていたらプロ野球選手を目指して大学や社会人で野球を続けていたかもしれないですし、ボクシングを始めていなかったかもしれないです。そう考えると自分のなかでは重要な一年になりました。
今、ボクシングでちょっと活躍できているのはコロナのおかげという感じもします。


2023年11月、あの2020年に各都道府県の大会で優勝したものの、甲子園に立つことが出来なかった当時の3年生が甲子園で野球をするという「あの夏を取り戻せプロジェクト」が開催された。

中島も、試合をKOで勝利した翌日に新幹線に乗って参加したという。

2023年11月、「夢」だった甲子園に(左から3番目が中島)
2023年11月、「夢」だった甲子園に(左から3番目が中島)

ーー夢だった甲子園に立ってどうだった?
絵のような球場でした。びっくりするくらい綺麗でしたね。中に入るのは初めてでしたけど、「ここが甲子園か」みたいな感じで。

ーー「甲子園」での野球は?
甲子園球場では入場行進とシートノックしかしなかったですが、みんな下手くそになっていました。個人的に感じたのは、県大会に出場していたメンバーよりもベンチ外の選手たちのほうが、悔しさを残したまま終わっていたのかなということでした。実際にプレーしていないからこそ甲子園に行きたいという未練みたいなのが残っていた気がします。そういう意味で、「あの夏」プロジェクトでみんなと甲子園で野球ができたのは嬉しかったです。

(2023年11月)
(2023年11月)


新型コロナウイルスは多くのアスリートの人生を狂わせた。

コロナ禍の4年間で目標としていた場所を失い、気持ちの行き場を無くした選手も多かっただろう。

一方で、中島のようにそれが思わぬ才能を見つける“転機”となったアスリートも今後増えてくるかもしれない。

そんな期待を寄せたくなるボクサー・中島海二の拳から目が離せない。

勝野健
勝野健

2022年入社。フジテレビアナウンサー。
マイナースポーツと呼ばれるボート競技を高校、大学と7年間やっていました。
普段はなかなか注目されないモノ・コト・ヒトであっても、隠れた面白さや熱い想いなどがあると思います。それらに丁寧に寄り添える取材者でありたいです。
また、人口減少や世代間格差という問題を抱える日本に生きる20代だからこその目線をもってニュースやトレンドを発信できればと考えています。

千葉県千葉市出身。慶應義塾大学卒業。
『イット!』『めざましテレビ』でニュース、スポーツ、天気と幅広く担当。また、野球・ボクシング・駅伝のスポーツ実況を担当。
趣味は魚釣り、ゴルフ、雑貨集め。