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#観光#歴史#100周年

岐阜県のほぼ中心に位置する白川町。

この町の交通往来を支えてきた「白川橋」は、大正15年の架橋から令和8年3月で100年を迎えます。

白川町観光協会では、その機運を盛り上げようと令和6年1月から御朱印ならぬ「御橋印」を300枚限定で販売を始めました。

御橋印は、白川橋を訪れた方にお渡しする記念印です。この取り組みをきっかけに、橋好きな人やドライブの途中に足を止めてくれる方が多くなり、白川橋が注目されるようになりました。

このストーリーでは、白川橋の歴史を振り返りながら、御橋印が生まれたきっかけや今後の取り組みについてお伝えします。


白川町のシンボル「白川橋」。全国的にも珍しい構造と洗練されたデザインが特徴

面積の87%を占める山林と、飛騨川を筆頭に5本の清流が流れる、自然豊かな岐阜県白川町。国道41号線を北上し、白川町に入ってすぐに目に飛び込んでくるのが、鋼製吊橋では国内で2番目に古い白川橋です。

白川橋は全長115m、幅員4mで、約10mの高さの主塔2本でケーブルを吊っています。鋼トラス構造の主塔は全国でも珍しく、3径間の吊り橋は当時初めて架橋されたものでした。

デザインも当時の欧米風の洗練された美しく安定感のある形が採用され、技術的にもデザイン的にも現代に通ずる大変貴重な橋となっています。

地域の夢であった鉄道開通とともに、白川橋が誕生。人がにぎわう観光地に


明治20年代、飛騨を経由して東海北陸を結ぶ「飛騨鉄道」や「飛騨縦貫鉄道」ができることは、地域に暮らす多くの人にとっての夢でした。

そして大正15年3月、その夢を叶える鉄道(高山本線)が西白川村(現白川町)にやって来ました。この白川口駅の開業と共に架橋されたのが『白川橋』です。


白川橋開通時のお祝いの写真

「父は、いつもあの橋のそばを通るとき、『あれはおれが造った橋だ』とうれしそうに話していた」

朝日新聞1995年(平成7年)7月10日号にて、白川橋建設現場の責任者だった中山平吉郎さんの息子、平夫さんはそう語っています。

白川橋は、建設に関わった人たちにとっての誇りであり、地域の人たちが待ち望んだものでした。


建設当初は人や馬車が行き来していましたが、昭和に入ると自動車が数多く渡るようになり、物流や交通の面で町民の生活を支えてきました。

昭和20年代には、周辺に温泉旅館が立ち並び、白川口で下車し白川橋を渡る観光客で町が賑わいました。

昭和35年、国道41号線に飛泉橋が架橋したことで、自動車はすべて飛泉橋に廻り、白川橋は歩行者と二輪車に限られるようになりました。


橋のふもとにある『丹羽新聞店』で働く丹羽れいさんは、昭和20年からこの場所で暮らし数十年前の白川橋をふり返ります。


『丹羽新聞店』の丹羽れいさん


「飛泉橋ができるまでは、歩行者だけじゃなくて車も通っとった。大きなバスも道幅いっぱいに通っとったで落ちんか心配やったわ。床も木製なのもあって、ガタガタと大きな音がしとった。学校に通う子どもたちも多くて朝夕は賑やかやった」


昭和30年代のおまつりの様子


昭和53年 木の板からコンクリートに改築

昭和63年 維持管理が岐阜県から白川町へ

平成2年7月 イメージアップのためライトアップ開始

平成18年 土木学会推奨 土木遺産に認定

平成25年 登録有形文化財(建造物)に認定

もうすぐ建造100周年。『御橋印』が人を繋ぐ新たなきっかけに

昭和40年代後半には大阪鉄道管理局の協力の元「白川茶茶摘みエック」と呼ばれる観光ツアーが開催されるなど、多くの観光客が駅を訪れ白川橋を散歩する風情のある光景も見られましたが、現在はその旅館も一軒を残すのみ。白川橋を利用する人の数は大きく減りました。」

「100周年を前に、時間をかけて少しずつ白川橋のことを盛り上げていきたい」と語るのは、白川町観光協会の役員であり、今回の『御橋印』の発起人でもある西野健二さん。

白川町観光協会の西野さん


以前からお寺を巡り御朱印を集めていたという西野さんは、テレビ番組で紹介されていた『御墳印(古墳を来訪した際にもらえる記念印)』を見た時に「これは白川橋でもできる!」と思いついたそう。

「観光協会の皆さんに提案したら『それは良いんじゃないか?すぐやろう!』って話を進めてくれました。熱量を持って提案すれば、いろんなことをやらせてくれる。白川町の人たちの良いところだと思いますね」

令和5年の1月に第一回目の御橋印が発売され、発売場所である白川口駅には朝5時からお客さんが並びました。


令和5年1月に発売された御橋印


「発売日には駅に人がいっぱいになったと聞きました。普段電車を使わない人が、駅に来て、白川橋を見る。そうやって御橋印の取り組みが、人が繋がるきっかけになってくれたら嬉しいですね」


建設されて98年。

数多くの人を対岸へと運んだ白川橋も、自動車の普及や生活の変化の中で利用者は減っていますが、数多くの風水害の中でも形を変えずにその姿を保ち続けています。

100年という節目を前に、橋としてではなく立派な観光資源として白川橋は生まれ変わろうとしています。

人々の思い出をつくってきた白川橋。町のシンボルは「人と人を繋ぐ」新しい役割へ

白川橋ではお盆や年末年始の時期にはライトアップも行っています。


ライトアップされた白川橋


「久しぶりに白川町に帰省した人や、車で国道を通った人が『白川町に帰って来た』という懐かしい気持ちになってくれたら嬉しい」

と西野さん。今後は『御橋印』の他にもライトアップの頻度を増やすなど、100周年に向けてより精力的なPRを検討しているといいます。


「架橋から100年近く経ちますが、床を木製からコンクリート製に変えた以外はほとんど修繕もしていません。

町内外のたくさんの人たちの思い出がこの橋には詰まっています。100周年の取り組みで白川橋が盛り上がることで、昔のことを思い出して会話が生まれたり、新しい出会いが生まれるきっかけになってくれたらなと思います」


飛騨川を対岸へと繋ぎ、地域の人の夢を叶えた白川橋。

100年近い歴史を積み重ねた白川町のシンボルは、「人と人を繋ぐ」という新しい役割を背負ってこれからも在り続けます。





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