瀬戸内市の長島愛生園や邑久光明園など、全国のハンセン病療養所の入所者の中には、多くの外国人がいました。そこには、在日外国人に向けられた二重の差別がありました。
(国立ハンセン病資料館 木村哲也学芸員)
「これまでの施設では伏せてきたこと、公にしていなかった事実、日本人の入所者からも心無い言葉が外国人入所者に向けられていたこと、恐らく初めて紹介する」
ハンセン病に対する差別・偏見に加え、外国人であることがゆえのさらなる差別…ハンセン病の療養所にいた外国人の元患者の暮らしや、生きた証しを伝える企画展が東京の国立ハンセン病資料館で開かれています。
(国立ハンセン病資料館 木村哲也学芸員)
「端的に言うと肉体労働、誰しもしたがらない汚い仕事、トイレのくみ取り、ごみの回収を在日の人にやらせてしまえということがあった」
言葉の壁でコミュニケーションが取れない外国人に重労働を強いていたことや日本人入所者に侮られないようにと、火葬場の係りや堕胎した赤ちゃんの始末といった過酷な作業を進んで行っていた人がいたことなど…残された言葉や書籍、療養所で使っていた道具などが展示され、彼らの思いや暮らしぶりを伝えています。
戦時中、日本の統治下だった朝鮮半島から、労働力として多くの韓国人が来日しました。彼らもハンセン病を発症すると、日本人と同じように療養所に強制収容されました。
全国の入所者が1万人を超えていた1960年代、外国人入所者が700人以上いたという記録が残っています。中には、インドネシアからの留学中に発症した女性や、ロシア革命で亡命した貴族の末裔もいました。
特に、岡山の2つの療養所では、外国人入所者の数が多く、全入所者の約1割を占めていました。
(竹下美保記者)
「長島愛生園のこの道は、在日外国人が中心となって切り開いた道です。具奉守さん、日本名で久保田一朗さん、その名をとって一朗道と名付けられています」
入所者の増加に伴い園内に新たな道路が必要となった時、力を尽くしたのが、韓国人の入所者でした。
(長島愛生園歴史館 田村朋久学芸員)
「彼が当時土木部の主任を務めていた、彼が先頭になって切り開いた道が残されている」
当時の園長が、その功績を称えて記念碑を建てましたが、そこには、本当の名前ではない日本名が刻まれています。
(金泰九(キム・テグ)さん*過去映像)
「一般の人に知ってほしい。知ることで偏見は軽減する」
長島愛生園で2016年に90歳で亡くなった金泰九さんです。語り部としても活動した金さんは、生前、外国人入所者としての思いを語っていました。
(金泰九さん<2008年撮影>)
「言葉が十分でないと、そこにあつれきがある、日本人患者とのあつれきがあれば、看護する人ととのあつれきも生じる」
「高齢の人、日本語が十分話せない人がいた。その人に対する偏見はやはりある」
(長島愛生園歴史館 田村朋久学芸員)
「在日外国人は言葉の問題もあるので受け入れる(部屋が)見つからなかった、その人は(最初の)収容所で長い時を過ごし、生活する部屋に行けずそこで亡くなったという話も聞いている」
日本語が話せた金さんは、外国人入所者に日本語を教えるなど仲間たちを支えました。ハンセン病の隔離政策が違憲と判断された国家賠償請求訴訟では、金さんなど外国人入所者も原告団に加わり、勝訴に大きく貢献しました。
らい予防法の廃止から30年を迎えた2026年、国立ハンセン病資料館では、外国人入所者への知られざる差別の実態を広く知ってもらおうと今回の展示を企画しました。
(国立ハンセン病資料館 木村哲也学芸員)
「これまで本当に見過ごされてきた反省。語ってこなかったというより、われわれが受け止めてこなかったほうが正しい」
3年前に国が初めて実施したハンセン病に対する全国意識調査では、「偏見差別は現存し、依然として深刻な状況にある」という結果が明らかになるなど、これまで取り組んできた啓発活動が、国民にほとんど届いていなかった事実も浮き彫りになりました。
(国立ハンセン病資料館 木村哲也学芸員)
「変えたいというか、自己反省。被害の事実は無根拠に日本人の患者像を描いてきた。日本人の患者像の被害であるとなんとなく思っていた。ところが、ふたを開けてみれば多くの在日の入所者がいて、やっぱり外国人入所者を抜きには、ハンセン病問題を語れないと思う」
(企画展を訪れた人は…)
「ハンセン病にり患した人は本当に大変な思いをした。さらに外国から来た人は想像もできない苦労をしただろう」
「どうすれば差別はなくなるか、考える」
「考え続けていくことしかない、私はね」
偏見・差別の歴史に目を背けることなくいかに次の世代にその事実を伝えていくのか?ハンセン病の元患者の高齢化が進む中、大きな岐路を迎えています。
