沖縄県うるま市石川の嘉手苅地区にある鍾乳洞「ケイブオキナワ」。数万年もの歳月をかけて形成された全長約250メートルの洞窟には、幻想的なライトアップと神秘的な自然の造形を求めて、今や年間15万人もの観光客が訪れる。

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しかし、色鮮やかな光に包まれたこの場所は、81年前の沖縄戦において、激しい戦火から逃れた地域住民が身を寄せた避難所(ガマ)だった。旧日本軍による住民の追い出しや集団自決(強制集団死)など、県内各地のガマに凄惨な記憶が刻まれる中、この場所は奇跡的とも言える歴史を持っている。避難した約300人全員が、誰一人犠牲になることなく生きて地上へ戻ったのだ。

かつて生死の境を分けた暗闇は、いま何を伝えようとしているのか。

息を潜めた暗闇と、命を繋いだ一つの決断

1945年、沖縄への米軍上陸を控えた激動の渦中で、住民たちはひとり、またひとりとこの洞窟へ避難のために身を寄せた。

当時12歳だった知花シゲさん(93)も、家族とともに避難した一人だ。

「危ないから自分らも、と家族全員で避難しました。友達がいたから、そこを頼って夜歩いて行ったんですよ」

ガマの中に充満する恐怖と、絶え間なく響く爆撃の音。いつ米兵が現れるかわからない極限状態のなかで、知花らは暗闇に息を潜め続けた。

「みんなやられると思っていた」

先行きも見えない状況下での心情を尋ねると、知花は当時の切実な胸中を明かした。

「壕の中でですか?その時はなには考えなかったよ。ただ生きるだけしか考えていなかったのに」

避難を開始して3か月あまりが過ぎた4月6日、ガマの外から敵兵による投降の呼びかけの声が響いた。緊迫が走るなか、先陣を切って外へ出る覚悟を決めたのが、当時の区長であった山城政賢さん(当時48)だった。

この決断が、洞窟に潜んでいた約300人全員の命を救うことになる。

ネガティブなイメージを変えるために広げた新たな入り口

現在ケイブオキナワの代表を務める池原勇矢さんは、全員救出の鍵となった当時の区長・山城政賢さんの曽孫にあたる。

「誰も出ていこうとしない中を、当時の区長が勇気を覚悟を決めて最初に出ていった。(曽祖父が)生き延びたからこそ、僕もこうして生まれてこられているのかなと感じています」

かつては「ヌチシヌジガマ(命をしのいだ洞窟)」と呼ばれ、縁起の良い場所とされてきたこのガマも、戦後は戦争の記憶という重い「足枷」を負うことになってしまった。

10年ほど前までは洞窟を歩く体験学習などを通して歴史を伝えていたが、池原さんは平和学習のあり方そのものに新たなアプローチを試みた。

「戦時中に使われた場所というのはネガティブイメージがもたれがちです。そのイメージを変えていきたいという思いがありました」

ただ恐怖や悲しみを突きつけるのではなく、まずは自然が創り出した鍾乳洞としての圧倒的な魅力で人を惹きつける。そこから深い歴史的背景へと意識を向けてもらう工夫を重ねたという。

「入口を自然の魅力というのを強調して、それを訪れるきっかけとしてまずは来ていただく。そこから歴史的背景まで届けていくために順序や手順を工夫してきました」

「観光ができるというのは平和の証」

観光地として賑わう現在の姿は、かつてこの場所で繋がれた命の延長線上にある。ライトアップされた幻想的な空間を散策し、水滴が刻む音に耳を澄ませる体験そのものが、戦禍を免れた平和の尊さをその身で体現していることにもなっている。

「気軽に旅行ができる、観光ができるというのは平和の証でもあるのかなと思っています。命が引き継がれて、先人から現在またそれを後世に伝えていく使命感を持って今後も施設運営をしていきたい」

沖縄戦でガマとして使用された場所には、それぞれの悲劇や歴史がある。

極限の判断によって命を守り抜いた「ヌチシヌジガマ」は、池原さんが能動的に工夫を凝らすことで、誰もが平和に触れられる入口となり、多くの人たちがその場に身を置くことによって命の大切さや平和の尊さを感じられる場所となった。

戦争の記憶を伝える「物言わぬ体験者」とも呼ばれる戦跡には、時の経過とともに維持管理という課題も大きく横たわる。

この先も歴史と記憶を繋げ続けていくための試みとして、ケイブオキナワのように新たなアプローチで観光施設として認知されていくことで広がりを生み出していくことも、有効な手だての1つと言えるのかもしれない。

沖縄テレビ
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