呉市の市街地が爆撃され、1800人を超える命が一夜にして奪われたとされる「呉空襲」から7月1日で78年を迎えた。「この悲劇を風化させてはならない」と、空襲の記憶を後世に残す86歳の男性の思いに迫る。

ねらわれた“東洋一の軍港”がある街

古くから港町として栄え、約20万人の市民が暮らす街、呉市。

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美しく輝く瀬戸内海を一望できるこの街は78年前のあの日、悲劇に見舞われた。しかし、その事実は人々の記憶から薄れていく…。
当時8歳で惨禍に巻き込まれた男性がいる。太平洋戦争中の記録を残す活動を行ってきた、朝倉邦夫さん(86)だ。

朝倉邦夫さん:
太平洋戦争中、呉はアメリカとの戦争の主戦場を分担されていた。呉の街自体は小都市だが、軍事上の要点として日米共に認識していた

呉市は明治時代から海軍の戦艦や兵器などを製造。

抱身製造の様子(提供:大和ミュージアム)
抱身製造の様子(提供:大和ミュージアム)

「呉海軍工廠(こうしょう)」や「広海軍工廠」など旧日本軍の施設が置かれ、“東洋一の軍港”とも呼ばれていた。

呉市で建造された戦艦大和(提供:大和ミュージアム)
呉市で建造された戦艦大和(提供:大和ミュージアム)

太平洋戦争の最中、呉市を海軍の重要拠点がある街と認識していたアメリカ軍。1945年3月19日、初めて呉市へ空襲を行った。8歳だった朝倉さんも、空襲を目の当たりにした一人だ。当初、攻撃対象となっていたのは海軍工廠など軍の施設。

呉海軍工廠(提供:朝倉邦夫さん)
呉海軍工廠(提供:朝倉邦夫さん)

しかし戦況が悪化するにつれて、アメリカ軍は街を焼き払い市民の戦意を喪失させ、早期の戦争終結を図るため、攻撃目標を徐々に市街地へ転換していった。

空襲前の呉市本通の風景(提供:大和ミュージアム)
空襲前の呉市本通の風景(提供:大和ミュージアム)

熱風と煙で“地獄”と化した防空ごう

1945年7月1日から2日にかけて、暗闇の広がる呉市上空に焼夷(しょうい)弾を搭載したアメリカ軍の爆撃機「B-29」が襲来。その数は152機に及んだ。

朝倉邦夫さん:
呉市内のほとんどが灰になって、2000人という人が一夜で殺された。最初に先導機が休山のふもと付近を爆撃して、次に愛宕山・本山のふもと付近を攻撃すると両側に火が出て目印になる。後続部隊が目印の間にある市街地に向けて、爆弾をどんどん落としていった

アメリカ軍が行ったのは住宅地などに焼夷弾を落としていく無差別爆撃。「焼夷弾」は火災を発生させるための爆弾で、呉の街は一瞬で火の海となった。

朝倉邦夫さん:
街中が大火になると火柱がたつ。温度も2000度近くになって石でもなんでも燃え尽きて、人間の体も真っ黒になって燃える

爆撃される呉市の様子(提供:朝倉邦夫さん)
爆撃される呉市の様子(提供:朝倉邦夫さん)

爆撃が最も激しかった場所の1つ、呉市本町にある和庄公園。当時、1000人以上が避難できる横穴式の防空ごうがあった。

呉市本町の和庄公園にある呉空襲犠牲者供養地蔵
呉市本町の和庄公園にある呉空襲犠牲者供養地蔵

空襲が始まると防空ごうに数百人の人が逃げ込んだ。そして、命を守るために作られたはずの場所は地獄と化したという。

朝倉邦夫さん:
焼夷弾が落ちてくると家が燃えるわけです。その周りの家もみんな燃える。すると、防空ごうの中に煙と熱風が入ってくる。煙で窒息したり、熱風で水ぶくれになって約800人が死んだ

横穴式防空ごうの中で亡くなった人々(提供:朝倉邦夫さん)
横穴式防空ごうの中で亡くなった人々(提供:朝倉邦夫さん)

空襲前と後の呉市を上空から撮影して、比較した写真が残されている。空襲後、白くなった部分は建物が焼失した場所を示す。山に囲まれた市街地のほとんどが白い灰になってしまった。

上空から見た空襲後の呉市街地(提供:朝倉邦夫さん)
上空から見た空襲後の呉市街地(提供:朝倉邦夫さん)

2時間45分にもわたる無差別爆撃によって犠牲になった市民は1800人以上、12万5000人もの市民が家を失った。

「体験者の話はもう聞けなくなる」

1945年3月から終戦までに、合わせて14回もの空襲が行われ3700人以上の尊い命が失われた。しかし時間と共に薄れゆく呉空襲の記憶…。朝倉さんは、その現実にもどかしさを抱いている。

朝倉邦夫さん:
平和とは、戦争とは何か?と言ったときは、やっぱり原爆の話しかないんですよ。呉の歴史、日本の歴史でこれだけの被害に見舞われた出来事を風化させることは、やっぱり残念なことだと思うんですね

朝倉さんは40年ほど前から空襲を体験した仲間と共に後世に記憶をつなごうと地道に資料を集め、母校の小学校などで語り部活動を行ってきた。

呉市立本通小学校の児童に空襲を語る朝倉さん
呉市立本通小学校の児童に空襲を語る朝倉さん

体験者の高齢化が進み、年々、当時を知る人は少なくなる一方だ。

朝倉邦夫さん:
体験者の話はもう聞けなくなるわけです。体験者から伝わったものを、今度は次世代がうまく継承して伝えないといけないですね

戦争を知らない世代に自発的に学んでほしい。それが朝倉さんの思いだ。

朝倉邦夫さん:
自分で参加して積極的に活動しようと思うと、わからないことを調べるから必然的に継承にもなる。戦争とはどんな悲惨なことが待っているかということを知って、学んだことを日本の国や自分たちの生活に役立ててほしい

呉市本町の寺西公園の戦災犠牲者供養塔に手を合わせる朝倉さん
呉市本町の寺西公園の戦災犠牲者供養塔に手を合わせる朝倉さん

呉空襲から78年。苦しい体験をしてきた人たちが残した「記憶のバトン」を後世につなぐ役割が、今、私たちに求められている。

(テレビ新広島)

テレビ新広島
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