「信号無視」車に奪われた11歳の”命”
3月14日。娘の三回忌にあたる命日に法廷に立った父親は、裁判員に悲痛な思いを伝えた。「冷たい耀子の体を撫でながら、二度と元気な耀子に会う事が出来なくなってしまった事に、底知れぬ絶望を感じました。」
当時11歳だった波多野耀子さん。東京・葛飾区でおととし3月14日、赤信号を無視して走行してきた軽ワゴン車にはねられ亡くなった。
この記事の画像(8枚)明るくのんびりした性格だったという耀子さん。バラエティー番組が大好きで、「将来はテレビ関係の仕事をしたい」と夢を語っていたという。翌年に控えた中学受験に向けて勉強に励んでいた矢先、突然未来を奪われた。
父親の訴え「命を奪った償いとして軽すぎる」
耀子さんと一緒に歩いていた父・暁生さん(44)も足を骨折するなどの大怪我を負った。事故後、「過失運転」による死亡事故の刑の上限が7年だと知った暁生さん。命を奪った償いとしては軽すぎると考え、運転手はより罪の重い「危険運転」で起訴されるべきだと、検察に何度も申し入れを行った。
事故からおよそ1年後、車を運転していた高久浩二被告(69)は、危険運転致死傷罪で起訴された。今月8日から始まった高久被告の裁判員裁判。初公判で、弁護側は「危険運転の成立は争わない」とした一方、赤信号を認識した地点について争う姿勢を示した。
争点となったのは、赤信号を認識した地点が、停止線の手前のどこだったのか。つまり停止線までの“距離”だ。高久被告側は停止線の「約12メートル手前だった」と主張したのに対し、検察側は「約28メートル手前だった」として、そこから殊更に赤信号を無視したと指摘した。
「今なら抜けるかなと思って行っちゃいました」
被告人質問で高久被告は、赤信号を無視した理由について、交差点の先の道路の路肩に止まっていた車を追い抜こうとしたと主張。「赤信号を見た時、今なら抜けるかなと思って行っちゃいました」
防げた事故ではないか-そう思わざるを得ない被告の主張に、暁生さんは法廷で目を潤ませた。初公判で初めて被告の姿を目にした暁生さんは、被害者参加制度を利用して高久被告に直接質問も投げかけた。
暁生さん:謝罪の連絡をすることは可能だったのではないですか?
高久被告:コロナが始まったので、コロナが落ち着いてからと思いました。
暁生さん:裁判初日から今日に至るまで、目も合わせず、一礼することもなく、今日やっと『申し訳ない』という言葉が出たが、本当に反省していると理解できると思いますか?
高久被告:本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
「子どもがいない生活。毎日が苦しい」母親の叫び
謝罪の言葉を何度も口にした高久被告だったが、裁判を通して高久被告は終始うつむいていて、暁生さんら遺族と目線を合わせることは一度もなかった。耀子さんの命日に行われた意見陳述では耀子さんの母も法廷で苦しい胸の内を明かした。
耀子さんの母親:事故の後、まず目が覚めたら、毎朝耀子がいない世界を感じます。夢を見て、自分の泣き声で目覚めることもあります。子どもがいない生活になりました。作る料理も洗濯物の数も、何もかもが変わってしまい毎日が苦しくなります。朝早いお弁当作りも、ベランダからの見送りも、塾のお迎えも、夜の軽食作りも、耀子とのメールのやり取りも、全て無くなってしまいました。もし、今耀子が生きていたら、もっと話をたくさん聞いてあげたいです。時間を急かすこともなく、耀子の話をたくさん聞いて、いろいろな希望を叶えてあげたいです。そして以前のように、暖かいベッドで一緒に寝て頬を撫で、抱きしめたいです。
意見陳述の最後に暁生さんは、「この様な事件を再発させてはならない。懲役20年に処して頂きたい」と述べ、最大限の刑を求めた。
「危険運転」認定 懲役6年6カ月の実刑判決
検察側は懲役7年6カ月を求刑。そして、東京地裁は22日、赤信号を認識したのは停止線の約28m手前だったと認定し、危険運転が成立すると認めたうえで、高久被告に対し、懲役6年6カ月の実刑判決を言い渡した。
判決後、会見に応じた暁生さん。「懲役6年6カ月というのは、結果に対して刑は軽いんじゃないかなというのが率直な意見です。」危険運転が認められたことに安堵しつつも、「過去の量刑と比較していては、実態にあった求刑や判決が出ない」と話し、戻ってこない一人娘の命を思いやるせない気持ちを口にした。
赤信号無視の車によって突然未来を奪われた若い命。防げたはずの悲惨な事故をなくすため、暁生さんは「『信号を守る』という基本的なルールを改めて再認識してほしい」、そう安全運転への願いを語った。
(フジテレビ社会部・司法クラブ 松川沙紀)