2026年11月、北九州市で開かれる障がい者野球の世界大会に出場する日本代表チームのキャプテンに岡山の選手が選ばれた。野球一筋約30年…野球にかける思いを聞いた。
◆26年11月に福岡・北九州市で「世界障害者野球大会」開催
体に障がいがあっても、自分のできる精いっぱいのプレーをする、それが障がい者野球のルール。日本・アメリカ・韓国・台湾・プエルトリコ。世界5つの国と地域が参加し、世界一を争う障がい者野球の世界大会が26年11月、福岡県北九州市で開かれる。
結団式に集結した日本代表は25人。その中に、岡山の障がい者野球チームから選出された槙原淳幹さん(37)の姿があった。今大会では日本代表のキャプテンを務める。
関係者を前に槙原さんはキャプテンとしてこのように挨拶した。
「障がい者野球には携わる選手一人一人に思いやドラマがある。私たちにしかできない技術や工夫もある。そんなプレーや熱い思いをぜひ一人でも多くの人に見にきてもらい、ガチンコで他の国とぶつかり合う姿を応援してほしい」

◆「岡山桃太郎」槙原淳幹さん(37)2回目の代表では主将に「後先考えずに壊れてもやりたい」
新見市に住む中学校教師・槙原淳幹さん。槙原さんは、岡山の障がい者野球チーム「岡山桃太郎」のキャプテンで、前回大会に続き2回目の日本代表入りを果たした。
「とにかく、自分は目の前の11月の世界大会で日本を世界一にするために全てをつぎ込みたい思い」
後先考えずに(体が)壊れてもやりたい・・・槙原さんがこう語るのには、理由があった。

◆生後10カ月の時に動かなくなった右手で始めた「野球」高校時代は軟式で全国制覇
生後10カ月の時、事故で右腕が動かなくなった槙原さん。小学3年で野球を始め、高校時代は新見高校軟式野球部で、全国制覇を成し遂げた経験がある。

◆障がい者野球チーム「岡山桃太郎」を全国制覇 大学卒業後は教師になり中学校野球部の顧問に
障がい者野球チーム「岡山桃太郎」に加わったのは、中学3年の時。槙原さんは、エースとして、打者としてチームを引っ張り「岡山桃太郎」は全国優勝する強豪チームに成長した。
2008年、岡山大学に進学した槙原さんは当時、記者に「今の使ってください」とまで言うほど訴えていた。
「野球は先生だと思っている。”野球は先生”・・・(放送で)使ってほしい。僕的には」
多くのことを教えてくれた野球にこれからもいろんな事を教えてもらいたい・・・。将来は子供たちに野球を教えたいと教師を志した槙原さん。現在も新見市の中学校で野球部の顧問を続けている。

◆走行中の車から転落した息子を助けようと…苦渋の思いで右手を離した母 しかし、腕の神経は回復しなかった
取材を始めて3年目、槙原さんの母・昌枝さんが、初めて彼の障がいについて話してくれた。
走行中に車のドアが開いた途端、あっと言う間に槙原さんは転落。何とか助けたいと昌枝さんは槙原さんの右手をぐっと引っ張っていたそうだ。
しかし、「この手を離せばこの子は死んでしまうと思った」と昌枝さん。早く手を離せばよかったが、これ以上引き続けていたら余計に引きずられて死んでしまうと思い、結果として手を離したという。
槙原さんの腕の神経は脊髄から抜け、手術しても回復しなかった。
昌枝さんは、障がいについてそれ以上は話すことはできなかった。
槙原さんが野球をすると聞いた時は「サッカーじゃないの」と思ったという。ボールを蹴る足は健常者と同じだからだ。

◆槙原さんが野球をするための「グローブ補正」と100回跳ぶための「縄跳び」への工夫
槙原さんは、野球を選んだ。野球をするために、あらゆる工夫をした。
例えば、グローブ。みんなと同じグローブだったら、みんなと同じようには野球できないため、手がすぐに抜けるように、捕ってすぐ抜けるように緩くしていた。
他にも縄跳びをするときには、幼い頃に手術を何回かした時のコルセットに針金を付けて縄跳びを接続、右肩に固定してマジックテープを巻き、こちら(縄跳びの先)を左手で持って跳ぶという方法を取り入れた。
「小学校の時、ずっと使って100回以上跳べた」と記者に工夫の成果を話していた。

◆「右手は使えなくなったが…」母校での講演会で明かした両親への「感謝の思い」とは
2010年、母校での講演会はこのように「生活する上での工夫」を語っていた。
・・・どうやって僕が爪を切ったり歯磨き粉を付けているか。床に座って右足の親指で上を抑えて爪を切る。歯磨き粉は台があったら右手の腕で抑えて付ける。歯ブラシを股に挟んでつけることもある。こう考えて生活している。
・・・右手の機能を事故で失った。親は気にしただろう。お母さんお父さんに伝えるとしたら、こんなに楽しい大学生活を送らせてもらっている。毎日楽しい。右手は使えなくなったが、こんなに楽しめる命を助けてくれてありがとうと言いたい。

◆槙原さんの約30年にわたる野球人生に訪れた大きな試練
約30年にわたる野球人生・・・、槙原さんに大きな試練が訪れた。
「こんにちは、失礼します」と、長谷川紀念病院の長谷川賢也院長のもとを訪れた槙原さん。
長谷川院長はレントゲン写真を確認しながら、槙原さんを診察する。
「頑張ってここのところやってますね こうすると痛いでしょ」
「腱(けん)板の一部が切れています。37歳でそこが切れるのは珍しい、珍しいが、あなたの場合仕方ない。左だけでやっているから」

◆ドクターストップレベルの故障に37歳という年齢…引退が脳裏をよぎっても変わらない野球への思い
槙原さんの左肩は、限界を迎えていた。今後の生活にも支障をきたす深刻な状態だった。
長谷川院長は槙原さんの状態について「野球のバットを本来両手で握って振るべきものを1本で振るというのはかなり(負担)。やらない方がいい」と説明した。
槙原さんの脳裏に、「引退」という文字がよぎった。
「痛みも尋常ではなかった。パフォーマンスも落ちてきた。年齢も37歳で、プロ野球選手も引退することだし・・・野球やっていたから体が駄目になってしまったことの悔いは全くない、それよりも野球から与えてもらったものの方がたくさんある」
大学入学時に語っていた「野球は先生」。野球が教えてくれた…その思いは変わっていなかった。

◆マウンドや打席に立てなくても「自分にできることはある」と日本代表主将に
〇福岡・直方市での合宿(9月12日)
「この2日間、もっとこうしたら強くなるのではないかなどの声をキャプテンに集めてもらって、手応えある2日間にして、11月には、よしやるぞという気持ちでまた集まろう」
合宿での練習試合。槙原さんは主将として、円陣を組み「さあ行こう」とナインに激を飛ばす。
槙原さんはもう、マウンドに立つこともバッターボックスに立つこともできない。それでも「自分にできることはある」と、日本代表のキャプテンを引き受けることにした。
フライに追いつけなかった野手に向かって「ナイストライ ナイストライ」
右腕のみでマウンドで投げる投手に「頑張れ、ピッチャー」
槙原さんの声がグラウンドに響き渡る。一方、代走でチームに貢献する場面も。

◆野球から「できないことを悲しむのではなく、どうやったらできるか考えていく」ことを教えてもらった
槙原さんは常に前向きだ。
「できないことを悲しむのではなく、どうやったらできるか考えていくというのは自分の人生でも、野球のグラブスイッチから教えてもらって、爪切り・歯ブラシ(の工夫)にもつながった。みんなこの場に来て同じことを考えているのがうれしい」
野球というスポーツを通じて表現・共有しようというのが「すてきな空間」に感じるとも語った。

◆日本代表・管野公治監督「落ち着きと声の指示の部分で中心となって選手を引っ張って」
日本代表の管野公治監督はキャプテンの槙原さんをこう評価する。
「落ち着きと声の指示がしっかり出せることを練習でしっかり確認できた。これからもそういう部分で中心となって各選手を引っ張ってもらえれば」

◆選手としての野球人生最後の大舞台を前に「どんな景色が見えるか楽しみ」
野球ならではの「打つ、投げる、走る」のうち、2つはできなくなったものの、槙原さんは競技人生最後の「日の丸」を背負い、こう語った。
「最後に大きな舞台に立てるということは非常にありがたい野球人生。黒い土の上に立っている時には目の前のボールを一生懸命追いかけることしか考えない、今回の世界大会、どんな景色が見えるか楽しみ」
障がい者野球。そこには、彼らにしか伝えられない命の輝きと、野球への情熱が存在している。
(岡山放送)

