ミャンマーでデモの取材中だったジャーナリスト長井健司さん(当時50)が兵士に銃撃されて死亡した事件から今年で15年となる。
銃撃したのはいったい誰なのか? なぜ撃ったのか?ミャンマー政府は事件の真相をいまだに明らかにしていない。

ミャンマーに目を向けてほしいのが願い
今年7月、軍政下のミャンマーの最大都市ヤンゴンで民主派のデモを撮影中に軍に拘束され、11月17日に解放されたたドキュメンタリー作家の久保田徹さん(26)が11月29日、日本記者クラブで会見して拘束時の様子などを語った。
久保田さんは解放を求めるおよそ8万人の署名を集めた支援者や大使館など政府関係者らへの感謝と、「発言の自由がある民主主義の国に戻れたことに安心した」と語った。そして「私の体験を通じてミャンマーに目を向けてほしいというのが願いです」と訴えた。

久保田さんによるとヤンゴンでは去年からの軍による厳しい取り締まりで目立った衝突はなかったが、インターネットで軍政批判をして投獄された若者や警察から暴力を受けた路上生活者の話を聞き、声をあげたくてもあげられない人がいると感じ、デモを撮影して実態を伝えることが必要だと思ったという。
この頃、ミャンマーでは取り締まりを避けるため、短時間のゲリラ的なデモが行われていて、情報を得た久保田さんは通行人を装ってデモ隊の数十メートル後ろからその様子を撮影していた。デモは30秒ほどで終わったが、車から飛び出してきた軍人に銃をつきつけられ、手錠をかけられて連行された。
「お前が行くのは地獄…」
取り調べを受けた警察署では、外でほかの拘束者と共に横断幕を持たされた写真を撮られ、デモに参加した証拠とされたという。
久保田さんがミャンマー国内で迫害を受けている少数民族ロヒンギャのドキュメンタリーを制作していたことが分かると「これからお前が行くのは地獄だ」と言われ、20人以上が収容された埃まみれで日光も入らない10平米ほどの留置場に収容された。


8月初めに刑務所に移送され、2カ月後に軍事法廷でデモに参加した罪などで懲役7年、裁判所では入管法違反で懲役3年の合わせて10年の判決を言い渡された。
判決を受けたときは頭が真っ白になり、想像するにはあまりにも長い10年の時の重みがのしかかったという。

託されたメッセージ
久保田さんは刑務所に拘束されたいる人たちから託されたメッセージと彼らの似顔絵を紹介した。
「ミャンマーで必要とされている正義と人権、民主主義のために、みなさんの協力を希望します。革命万歳」
「すぐに革命が成功することを願う。助けてください」


そして今も拘束されているジャーナリストらの写真なども公表して、支援を訴えた。
人権団体の調査では去年の軍事クーデター以降、2500人以上の市民が殺害され、1万6000人以上が逮捕され、多くが今も拘束されているという。

繰り返される軍事クーデター
ミャンマーは1948年にイギリスから独立したが、2度の軍事クーデターによる軍政が長く続いていた。
2011年には民政移管が実現し、日本企業なども進出して経済発展を遂げていたが、総選挙で国家顧問だったアウンサンスーチー氏が率いる民主派勢力が圧勝したことなどから去年2月、またも軍事クーデターがおきて、民主派の指導者や活動家、一般市民らが次々に拘束・逮捕され、再び閉ざされた国となった。
そしてこれまでの長い間、この国の実情を伝えようとした多くのジャーナリストも逮捕され、投獄され、命を落とした事件もあった。
長井健司さん銃撃事件の時も…
私がタイのバンコク特派員だった2000年代後半も外国メディアがミャンマーに入国できたのは新首都ネピドーへの移転や大きな災害で支援を求めたいときなどに限られ、取材は軍政によって厳しく制限されていた。
そうした中、2007年にガソリン代の高騰など国内の物価高に反発した僧侶のデモをきっかけに市民や学生らも参加する大規模な反政府デモが国内各地に拡大した。
取材ビザはおりずに外国メディアの入国が規制される中、その現状を伝えるためにデモを取材していたのが日本人ジャーナリストの長井健司さんだった。
9月27日、デモ隊と突入する治安部隊を撮影していた長井さんは銃撃されて死亡した。事件はその日の夜に明らかになったが、軍政府は「遠距離からの流れ弾による事故」と主張していた。

兵士による銃撃の証拠映像を撮影したが…
FNNの取材班は武装した治安部隊の兵士が長井さんを銃撃する瞬間を撮影し、翌28日朝から報じた。映像には長井さんがデモ隊の周辺で撮影していたところに、軍の治安部隊が襲いかかり、デモに参加していた市民が逃げる中、その模様を撮影していた長井さんに向けて、突入してきた兵士が至近距離から発砲する一部始終が収められていた。
映像は世界に向けて発信され、軍政への批判が一気に高まったが、その事実を軍政は認めようとしなかった。

その後、長井さんの遺体は帰国して警視庁が司法解剖し、映像分析などから「一番近くにいた兵士によって至近距離からライフル銃で撃たれた」と断定し殺人容疑で立件したが、捜査は進展していない。

戻らない長井さんのビデオカメラ
長井さんが撮影していたビデオカメラにはその瞬間が映っているはずだったが、結局その後もカメラとテープは未発見ということで返還されず、その後、民政移管になった時も事実が解明されることはなかった。
報じた映像には銃撃されて倒れた後も長井さんがビデオカメラを右手に握りしめている様子がはっきりと残されている。

妹から兄・長井さんへの思い
事件から15年を迎えた9月27日、長井さんの妹の小川典子さんが墓前に手をあわせた。事件の後、悲しみに暮れていた両親は8年前に他界したという。


小川さんは11月30日、FNNのインタビューに思いを話した。
「真相が明らかになるように訴えてきましたが15年が過ぎてしまいました。数年前に外務省から『民政移管した政府も過去の罪は問わないという姿勢だ』と言われて、気落ちしたこともあります」
紛争地の取材などで海外各地に行っていた兄と会ったのは、事件の5年ほど前の親類の葬儀が最後だったという。

「駅まで見送った時の『体に気をつけて、元気でね』『大丈夫』というやりとりが今も目に焼き付いています」
そして久保田さんの拘束や会見を報じたニュースなどでミャンマーの状況が変わっていないことをあらためて知り、早く民主的な国になってほしいと話す。
「久保田さんの使命感には敬服していて、応援していますし、兄に重なるものを感じてしまいます」
「私なりに努力してきましたが、また1年が過ぎてしまいました。この数年は兄に謝ってばかりです」

「誰かが行かなくては…」長井さんの遺言
久保田さんは会見で「自分はミャンマーでいまだに拘束されている人々、声をあげられない人たちの代わりに声をあげる義務があると思っている」と決意を語った。
長井さんのお墓には生前、長井さんがよく口にしていた言葉が刻まれている。

「誰も行かなければ、誰かが行かなくてはならない・・・」
【執筆:フジテレビ解説委員室室長 青木良樹】