新型コロナウイルスの感染拡大で、私たちの生活、国や企業のかたちは大きく変わろうとしている。これは同時に、これまで放置されてきた日本社会の課題、東京への一極集中、政治の不透明な意思決定、ペーパレス化の遅れ、学校教育のIT活用などを浮き彫りにした。

今回から連載する「Withコロナで変わる国のかたちと新しい日常」では、こうした社会課題の変革について、さまざまな有識者を交えながら論考していく。

その第1回のテーマは、人の往来の8割削減の障壁となり、私たちの命を危険にさらしかねない「紙とハンコ文化」の終焉と「電子契約社会」の到来だ。

保育所をさらに追い詰める「ハンコ」

「コロナショックで疲弊する保育所をさらに追い詰める『ハンコ』」

子育て支援を行う認定NPOフローレンスの代表理事・駒崎弘樹さんは、自身のSNSにこんなタイトルから始まる投稿をした。

「緊急事態宣言下において、保育所は休園するか、規模を縮小して医療従事者の家庭などの子ども等を、感染対策を万全にして受け入れているところです。一方、政府からの『職場への出勤者最低7割削減』の要請に応えるため、フローレンスでは、出勤の必要がない職員はテレワークにしています」

しかし、こうしたテレワークへの取り組みを困難にするものがあると駒崎さんは訴える。

「なぜかというと、自治体へ提出する各種申請書類などに『ハンコ』を押すために出勤しなければならないからです」

駒崎さんが挙げた、ハンコを押して自治体に提出しなければならない書類を見ると、東京都だけでも、異動の都度提出する「児童発達支援の配置変更届」など5つ、23区では台東区が11、江東区が4と、区ごとに数種類あり、かつ提出する書類の形式は異なる。

ハンコを押すために出社を余儀なくされるフローレンスの社員

駒崎さんは続ける。

「コロナショックの影響で日々対応に追われて疲弊している職員が、ハンコを押すためだけに感染リスクを感じながら出勤しなければいけない状況…自治体のみなさん、ハンコの省略を認めるか、クラウドサインなど、電子ハンコでも代替できるように早急に運用改善してください!」

役所ほど紙とハンコまみれのところはない

働き方改革に詳しい相模女子大学特任教授の白河桃子さんは、押印のために出勤せざるを得ない社員・職員がいる今の状況をこう語る。

相模女子大学特任教授の白河桃子さん

「社会全体の危機に対しても適切ではないですし、社員の安全を守らない企業はブラック企業の烙印を押されても仕方がない。特に役所ほど紙とハンコにまみれているところはありません。霞が関は反・働き方改革の『震源地』と言われているけど、いくら民間が働き方改革をしようと思っても、最後は役所の働き方に縛られてしまうのです。紙を送るための人との接触や、配達する方たちのことを考えると、少しでもリスクを減らすほうがいい」

白河さんによると、ある外資系企業では、官公庁向け書類の押印のために出社せねばならず、緊急事態措置として社外に印鑑を持ち出してよいと社内ルールを変更したという。

「東京オリパラに向けてテレワークの制度を整備した企業は増えたのですが、その直前に今回の事態となったので、長期間で全社一斉という予行練習はほとんどやっていません。海外がなぜテレワークがうまくいっているかというと、もともとテレワーク比率が日本より高いことがあります。たとえば香港は、デモの影響で出社ができない分、テレワークが定着したし、アジアの他の国はSARSの経験もありました。日本では、制度こそ作ったものの、経験が不足しているのですね」

ハンコリレーは日本の生産性を下げている

こうした「紙とハンコ文化」を変えるツールとなるのが、電子署名だ。

日本で最大の8割のシェアを持つ「クラウドサイン」。この事業を運営する弁護士ドットコム株式会社の橘大地取締役クラウドサイン事業部長はこう語る。

「クラウドサイン事業は2015年10月から開始しました。私自身の弁護士活動の中で、契約書に関する課題が見えてきたことが、事業を始めたきっかけです。当時は契約書の交渉に1か月くらい関わり、ようやく交渉が終わっても『ハンコ』をお互いに取り交わすのにもう1か月かかっていました。こうしたハンコリレーを止めるだけで、すべての取引スピードが速くなるし、日本の産業競争力や生産性を上げることになるので、社会貢献になるという強い思いでクラウドサインを始めましたね」

クラウドサインを使っている企業は、現在6万5000社。社数ベースで見ると、その多くは中小企業だが、契約件数ベースでは圧倒的に大企業が占めている。

「4年間やってきて大企業にも徐々に普及していて、クラウドサイン化は進んでいます。ただ業種別では、不動産や建設などファックスで受発注を行う『ファックス文化』の業種は遅れていますね」

弁護士ドットコム株式会社の橘大地取締役クラウドサイン事業部長

民法の契約成立に「ハンコ」の文言はない

弁護士である橘さんに、ハンコ文化が変わらない法的な理由を尋ねた。

「法的に言うと、民法には契約の成立について『ハンコ』という文言は1つもありません。お互いが合意すれば契約は成立することになっているので、ハンコ文化をやめるのに『法律の壁』は基本的にないのです。不動産の売買仲介契約に対面義務や書面での交付義務があるなど、ごく一部の法律が残っているだけで、むしろ法律は電子契約の規制が毎年緩和されています。たとえば2019年には、雇用契約時に結ぶ労働条件の通知書が解禁されていますね」

ではハンコ文化が変わらない背景にあるのは何なのか?橘さんは語る。

「変わらない理由は、自社がいいと思って導入しても、相手先が受け入れてくれないと使えないことです。日本は企業が400万社あって、390万社はまだハンコ文化だとすると、クラウドサインを導入しても取引先が了承しないと全ての契約でまだ使えないということです。つまり社会全体が変わらないと、電子契約というのは普及しない構造になっているのです」

アメリカもかつては紙の契約社会だった

一方、欧米では電子契約の普及が進んでいる。

世界180カ国で使われ、有料ユーザーは56万社、売り上げ高が約10億ドル(1000億円)を誇るアメリカの「ドキュサイン」。いまアメリカで契約を交わす場面では、「ドキュサインする」という動詞が、「ゼロックスする(=コピーする)」と同じように一般的だという。

ドキュサインの日本法人の立ち上げに加わったマーケティング部ディレクターの土肥渉さんは、「創業当時のアメリカは今の日本以上に契約社会だった」と語る。

「創業した2003年当時のアメリカは、今の日本以上に契約社会で、不動産の契約では紙を使った膨大な量の契約書に、繰り返し名前や住所を書いて署名を求められました。このことに疑問を感じた創業者のトム・ゴンザーは、ペーパレスで、いつでもどこでもモバイルデバイスで署名できないかと考え、2003年にドキュサインを創業したのです。アメリカでは今、電子署名は広く普及していて、書面での不動産売買契約を嫌う売主や買主が増え、電子化の波に乗り遅れている不動産屋は断られてしまうという話もあるくらいです」

ドキュサインの電子署名

日本は電子契約のポテンシャルがある

6年前にヨーロッパに進出したドキュサインが、日本語のサービス始めたのは3年前の2017年だ。当時のことを土肥さんはこう語る。

「2014年に日本進出を検討し始め、幹部が日本を視察した際、多くの企業が紙の契約やファックスを利用しているのを見て、潜在的な市場があると感じたそうです。日本は自動車など製造業の生産性は世界最高水準でしたが、オフィス業務はまだまだ改善の余地があるなと」

では、ドキュサインから見て日本の「紙とハンコの文化」はこの数年で変わったのだろうか?

「法律はだいぶ変わってきました。特に最近はコロナ対応で問い合わせも多く、中小企業やスタートアップがどんどん導入しています。大企業では、三井物産が2019年の暮れにドキュサインを導入しました。アメリカ本社のCEOは、我々の世界市場のシェアはまだ4%だと言っています。ただしこれは、紙を含んだすべての契約市場です。日本はまだ紙を好きな人が多いですから、まだまだ電子契約を広げる余地はありますね」

電子署名をした契約書

Withコロナの変化はアフターコロナに連続する

「Withコロナ」によって、これまで放置されてきた社会課題が顕在化している。日本の生産性を落とし、コロナ禍で人々の命まで脅かす「紙とハンコ文化」を、いつまで日本社会は続けるのか。クラウドサインの橘さんは言う。

「Withコロナとアフターコロナは連続するものだと思っています。移動ができず、家に閉じこもって社会生活を送らなければいけない中で、デジタル化は強制的に進んでいきます。アフターコロナにおいて、ハンコを復活させるのかというと、そうはなりません。まさにWithコロナ時代の変化は、アフターコロナに連続し、さらに広がるものだと思っています」

かつてドイツの宗教改革者、マルティン・ルターはこう言った。「たとえ明日世界が滅亡しようとも、きょう私はリンゴの木を植える」

アフターコロナは、Withコロナ時代に芽生えた変革のバトンを受ける希望の時代になるはずだ。

【執筆:フジテレビ 解説委員 鈴木款】